気まぐれ編集後記
春陽堂書店Web新小説編集部
気まぐれ編集後記
一昨年(二〇二〇年)五月末、東京で緊急事態宣言が解除された頃、印刷所に勤める四〇代女性の友人からやるせない話を聞いた。通勤のために電車に乗っていた朝の出来事である。
「つり革につかまっていました。すると突然、足の甲にひどい痛みを覚えたのです」
ガツンガツンと棒状のような物でたたかれたような痛みだ。
「前に座っていた若い女性がかかとで私の足の甲をたたいていました」
ありえない。
友人は頭に血が上った。
だが、その若い女性の隣に座っていた老紳士が「何をなさっているのですか」とたしなめたその一言で冷静に戻った友人、さてはマスクをし忘れて電車に乗ったせいだと気付いた。
「やれやれ」とため息をついて、その電車を降りて、バッグからなけなしのマスクを取り出し着けて、次の電車に乗った。コロナ禍人心殺伐事件簿である。
だがしかし、ちょうど同じ時期に私はこんな車内風景も目にしていた。
午後の三時頃だったか、小学生の女の子が一人でランドセルを背負って乗っていたが、歯に物がはさまったようでマスクを外して爪で歯をいじり始めたのである。
すると、近くにいた品のよい白髪のおばあさんが、小さなやさしい声で諭したのだ。
「だめよ、ばい菌がお口の中に入ってしまうわ」
とてもすてきなお節介ではないか。小学生は素直にお辞儀をしてマスクをした。おばあさんはお洒落な草色のスカーフをまとっていたことを覚えている。
人は追い詰められたときに本当の姿が現れるという。
かかとで蹴った若い女性の獣性。
そして高齢の自分にあるCOVID-19のストレスを省みず小学生に話しかけたおばあさんのやさしさ。強い。
新型コロナウイルスが猛威を振るってから二年。私たちが学んだことはこまめに手を消毒することだけではないはずだ。
人として何を考え、どのように振る舞うか。
経験を生かして再出発するこの春。四月一日号特集「新・日常考─きのうまでと違うこと」ではご活躍中の作家の方々にそれぞれの思いをお書きいただいた。ぜひご感想をお寄せください。
(万年editor)
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