SNS(喧騒)から少し離れて
上田岳弘
そばとJBL
上田岳弘
もう20年近く前、今も所属している会社の最初の事務所は、外苑前にあった。事務所といってもマンションの一室の、いわゆるマンション事務所で、そこに机を並べて働いていたのは5人ほど。当時僕は大学を卒業したての掛け値なしの若者だった。大学を卒業してからアルバイトで生計をたてていた折に、誘われるままに入社した。西暦でいうと、2004年のことだ。ちょっとした起業ブームで、さまざまな揶揄を受けながらもIT関連企業の新規上場は続いていたし、将来性を見込まれてそれらの株は高騰していた。
僕が参加した会社もIT関連だった。流行りに乗ってというわけではなかった。あの時代、特段のあてもなく学校を卒業して、社会に出た人間を回収していたのが、当時の新しい産業であるITであっただけだ。もっと前であったなら、きっと僕は別の業界に拾われていただろう。当時IT周りには資金が集まって、僕の所属する会社も起業から1年ほどたったころには、ベンチャーキャピタルから投資を受けて、マンション事務所を抜け出した。
だから、マンション事務所で働いていたのは、1年に満たない程度のことだ。期間としてはとても短いのだが、その当時のことはスポットライトに照らされるように妙にところどころ鮮明に覚えている。
碌な業務があったとも思えないし、具体的なところはあまり覚えていないのだけど、とにかく朝から晩までそのマンション事務所で何かをしていた。市場ニーズから製品・サービスを世に送り出す、マーケットイン型ではなく、広めたい製品を世に問うプロダクトアウト型の起業だったから、販路を開拓すること自体が手探りだった。ああでもない、こうでもない、と予想をたてては、ひとづてや会社窓口に直接のアプローチをしたし、当時たくさんあったパソコン雑誌に記事として扱ってもらうよう働きかけた。20代半ばの若者だった僕には特に展望もなく、頼れるのは自分の直感や、自己流の分析と論理構成、そしてつきつめていけば最終的には楽観的になる性根ぐらい。今にして思えば良い経験だったと思う。デウス・エクス・マキナ的に、人生の最後に神様が現れて、あの20代をもう一度やれ、と言われれば、丁重にお断りするが、過ぎ去ったものはたいてい綺麗に見える。
ただやみくもに働きながら、当時はとにかくよく飲んで、よく話した。これも仕事と同じでその内容はあまり覚えていないのだけど、酒の場で、ああでもないこうでもないと話し続ける自分を外から見ているような像がいくつも残っている。自分のことを外から見ているわけはないのだけど。
なかでもよく覚えているのは、始発時間の間際までやっていたそば屋のことだ。会社の近くで飲んで、終電を逃した折によくその店にいった。24時間営業のチェーン店でもないのに、深夜にやっているそば屋。当時から不思議だった。日付の変わる時間を過ぎても、だいたいいつも客はいた。土地柄か、どことなくファッショナブルな人が、そばと日本酒をすすっていた。
あの頃、何をそんなに話すことがあったのかわからないが、とにかく、記憶によれば、尽きることなく僕は話し続け、何かを主張し続けていた。そしてそばをすすり、ビールを飲んだ。確かに、多くのことに不満を持っていたし、将来の不安は、将来の可能性と引き換えにいつも僕の中にあった。
夜だけやっているそば屋、どことなくおしゃれな客たち、真空管アンプにJBLの大きめの青いブックシェルフ型のスピーカー、そこから流れる名も知らぬジャズ。
そば屋のくせにきどりやがって、そば屋のくせにJBLを置くな、そば屋のくせにジャズを流すな。
そうだ、不満と不安を打ち消すためか、僕はあの頃たくさんの悪態をついていたんだった。けれど時が経ってみれば、それも含めて綺麗に見える。
機会があれば10数年ぶりにまた行ってみたいと思うけれど、まだあるのかはわからない。
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