萩原朔太郎 没後80年 宿命の詩人、再評価進む ──生涯と作品に現代の光
宮川匡司
萩原朔太郎 没後80年
宿命の詩人、再評価進む
――生涯と作品に現代の光
宮川匡司
詩人、萩原朔太郎が、東京・世田谷の自宅で死去したのは1942年(昭和17年)、米英と日本が開戦しておよそ5ヶ月後の5月11日のことだった。享年57。満年齢でいえば55歳。
当時の平均寿命を越えていたとはいえ、現在から見れば、まだ亡くなるには早すぎる年齢である。
その死から今年で80年。今、全国各地の文学館や博物館、美術館、図書館、大学などで、この詩人をしのぶ展覧会やイベントがいっせいに開催されている。称して「萩原朔太郎大全2022」。没後80年を機に、「日本近代詩の父」と呼ばれてきた朔太郎の作品と生涯を、多角的な視点でとらえ直す前例のない規模の試みとなった。
多くの人が朔太郎の作品に接してまず驚くのは、第一詩集『月に吠える』(1917年=大正6年)の詩編が切り開いた口語自由詩の研ぎ澄まされた感覚表現だろう。
光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。
かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。
この「竹」は、長年、高校の国語の教科書に採られてきた作品だ。竹という植物から受ける悩ましいまでの生命力を幻視する異様に鋭い詩人の感覚が表現されている。存在の危うさを病的なまでに感受し、表現する斬新な感覚は、「危険な散歩」「くさつた蛤」といった詩でも、場面や題材を違えて変奏されていく。
一方で、「殺人事件」は、まるで探偵小説のような世界を、磨き抜かれた言葉で詩にした屈指の傑作だ。
とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
詩の前半を目で追うだけで、読み手は、謎めいた犯罪シーンの幻想的なイメージに、引き込まれていく。青春期の情欲を畳み込むようなリズムで表した「愛憐」の大胆な官能表現など、詩集『月に吠える』の詩は、現代の読者を今も魅了する革新性をたたえている。
しかし、口語自由詩への驚くような跳躍から出発した朔太郎の文学は、大正後期から昭和初期にかけて、多くの曲折と展開を遂げる。孤独と憂愁を深める朔太郎の詩やアフォリズム、それに批評は、故郷への帰属を失った漂泊者の面影を濃くしながら、大正から昭和前期の文学者が抱えた数々の問題に突き当たっていく。
前橋文学館の呼びかけから、全国各地で開かれている「萩原朔太郎大全2022」関連の展示は、そんな様々に変容する朔太郎像を多角的にとらえ直した最新の成果でもある。
東京都世田谷区の世田谷文学館で開催中の「月に吠えよ、萩原朔太郎展」(23年2月5日まで)は、原稿やノートといった資料だけでなく、朔太郎が撮影した写真作品、自らデザインした本も展示。さらに、音楽家としての一面にも光を当て、その文学と芸術の関りを探っている。「竹」や「地面の底の病気の顔」といった詩の代表作を大きな白いパネルや布地に青い字で印刷し、インスタレーションのように会場に配した構成が目を引く。同時に朔太郎作品に触発された現代の美術家や漫画家の作品も展示、そのきわめてビジュアルな空間では、朔太郎の芸術の多彩な側面と広がりを体感することができる。
一方、千葉県市川市の市川市文学ミュージアムは「月に吠えらんねえ展」を開催している(12月11日まで)。『月に吠えらんねえ』(全11巻、講談社)は近年話題となった清家雪子のファンタジー漫画で、萩原朔太郎とその周辺の近代詩歌の作り手たちを作品イメージからキャラクター化して、彼らの人間模様や心情などを描いた作品だ。朔太郎らしき青年「朔くん」、北原白秋を連想させる「白さん」、室生犀星を思わせる「犀」、三好達治のような「ミヨシくん」などのキャラクターが、架空の街「□(詩歌句)街」で交遊する虚実織り交ぜた文芸ファンタジーだ。
展示では、主要登場人物のキャラクターを、『月に吠えらんねえ』の場面とともに紹介。併せてその基になった文学者のプロフィールを肖像とともにパネル展示し、この漫画に親しみを感じた読者を、近代文学の世界へとやさしく導いている。
10月30日には、この漫画のエッセンスを、声優の朗読と、原画の映像や音楽を使って伝える「リーディングシアター」(構成・脚本 栗原飛宇馬)が、同ミュージアムに隣接するホールで上演された。朔太郎の孫で前橋文学館館長の萩原朔美氏も、「犀」役として出演。戦争の時代に入って、朔くんはじめとする登場人物が、戦争協力の問題に否応なく直面する原作の核心に、この朗読劇は光を当て、緊迫した台詞で詩人たちの心情を表現した。
上演後のトークショーでは、朗読劇で登場したサイパン島での女性の投身シーンにも触れ、雪崩を打つように戦争詩を書いた当時の詩人たちに対する『月に吠えらんねえ』の踏み込んだ関心が話題となった。清家雪子氏は、朔太郎研究者である安智史氏と栗原飛宇馬氏の質問にこたえて「現代の価値観で過去を見るのではなく、なるべく当時の価値観に準じたいという思いがある」と語った。戦争詩を頭から否定するのではなく、当時の状況を踏まえたうえで文学者の戦争との関りを問い直すアプローチには、戦争協力=悪と裁断する従来の見方を乗り越えようとする視点がある。
新しい詩の表現を求めて大きく飛躍した朔太郎が後年、文語詩を書き、日本浪曼派に参加して保田與重郎にも共感を示したことは事実である。漫画『月に吠えらんねえ』のインパクトは、当時の文学者同士の交友にボーイズラブの要素を見出す現代的なエンターテインメント性だけではない。個を追究したはずの表現が、「国家のため」という課題に突き当たる昭和文学の難題を、正面から見据えている点も高い評価を受ける理由だろう。
11月に刊行された『萩原朔太郎大全』(朔太郎大全実行委員会編、春陽堂書店)は、現代の萩原朔太郎研究の成果を、平易な言葉で集約し、ビジュアルな朔太郎ガイドブックとして多くの情報を盛り込んだタイムリーな一冊だ。清家雪子氏が書き下ろした「朔くん断片」と題した8編の漫画は、朔くんのキャラクターを通じて朔太郎の人間像を想像する格好の道案内となっている。また、親族や友人とのスナップ写真を含む数多くのポートレイトや著書、ノート類、書簡などの豊富な写真も、この天才詩人を身近に感じる一助となるだろう。
同時にこの本のために安智史氏が書き下ろした「萩原朔太郎略伝」は、近年の研究成果を生かした最新の評伝だ。結婚生活を続けられなかった朔太郎の女性観や家庭観を洗い直す一方、古賀政男の歌謡曲やトーキー映画、ラジオなど流行とメディアの新たな動向に、いち早く反応したモダンな詩人・批評家としての一面にも注目する。一編だけ残した戦争協力詩をめぐる朔太郎の悔恨の念を拾い上げ、時局に沿った詩を書き続けた他の詩人たちとの姿勢の違いに論及している点も印象的だ。
朔太郎の詩学の集大成として知られる『詩の原理』(1928年)は、主観と客観など二項対立的な問題設定が批判の対象となりがちだった。しかし、美学者、谷川渥氏による「萩原朔太郎『詩の原理』について」(『萩原朔太郎大全』所収)は、表現は観照なしにありえないとする朔太郎の主張を「画期的なもの」として再評価する視点が新鮮だ。
朔太郎が1931年(昭和6年)に第一書房から出した『恋愛名歌集』が、今年6月、新たに岩波文庫に入って復刊した。自由詩を書く実作者の立場から、明治以降、評価が低かった「新古今和歌集」を再評価した古典論の代表作だ。「新古今集」の繊麗な技巧主義の内部に、暗く悩ましい哀調をはらむ耽美性を見出す視点は、孤独と憂愁の詩人の真骨頂である。
朔太郎と周辺の詩人、作家との交遊の跡をたどる展覧も各地で開かれている。東京都北区の田端文士村記念館で開催中の「朔太郎・犀星・龍之介の友情と詩的精神」展(23年1月22日まで)は、朔太郎が1925年(大正14年)4月に田端に転居し、付近に住む芥川龍之介や親友、室生犀星と頻繁に往来した時代に光を当てた。犀星や芥川と出会った時の印象をつづる朔太郎の言葉や、それぞれの詩に対する考えを述べた文章を、抜き出して並べ、交遊の足跡や、個性の違いを分かりやすく紹介している。
朔太郎の無二の親友だった犀星は、後年の回想で、朔太郎との交遊を懐かしく振り返っている。
「前橋訪問以来四十年というものは、二人は寄ると夕方からがぶっと酒をあおり、またがぶっと酒を呑み、あとはちびりちびりと飲んで永い四十年間倦きることがなかった」(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)
朔太郎の泥酔ぶりは、はなはだしく、膝に酒をこぼし放題。長女の作家、萩原葉子の回想『父・萩原朔太郎』によれば、酔うとごはん粒をぽろぽろとこぼすくせがあり、お膳の上やまわりの畳が、まるで赤ん坊が食べ散らかしたような状態になるという。犀星は「萩原という人は一度も子供に怒ったことがないし、母とか父の命にそむいたこともなかった。自分の妻を叱ることもなかった」(同)と書く。こうした逸話からは、詩人の家庭での素顔がしのばれる。
朔太郎は32歳の時に結婚した最初の妻と、10年後に離婚。2人の娘を伴って故郷の群馬県前橋の実家に戻るが、ふるさとの親族の目は、妻と離別して舞い戻った落魄の詩人に厳しかった。1934年に出版した詩集『氷島』所収の文語詩は、このころの心情を鋭く映し出す。家庭にも故郷にも帰属できない詩人は、憤怒と憎悪と寂寥と懐疑のはげしい感情を抱え、心の内の絶叫を漢文調の文語で表現するしかなかった。
ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
寂寥を抱える漂泊の詩人のイメージは、大正末期以降、『氷島』の時代までに書かれた文語詩の中に色濃く表現されている。
朔太郎の詩をめぐるエッセイや詩論を集めた新刊『詩人はすべて宿命である』(国書刊行会)からは、朔太郎の詩に対する深い思いをたどることができる。朔太郎こそ、日本の近代の詩人が向き合うべき課題を映し出す宿命の詩人だった。その解説・解題で、安智史氏は、朔太郎のアフォリズム集『新しき欲情』でボードレールを評した言葉を引きながら、朔太郎もまた「傷ましい近代的の悲哀」を体現する詩人、と位置づけている。朔太郎が抱えた「傷ましい悲哀」は、大正から昭和を覚醒して生きた詩人が宿命的に抱える心情でもあった。
エッセイ集『日本への回帰』(1938年)に朔太郎は書いている。
「過去に僕等は、知性人である故に孤独であり、西洋的である故にエトランゼだつた。そして今日、祖国への批判と関心とを持つことから、一層また切実なヂレンマに逢着して、二重に救ひがたく悩んでゐるのだ。孤独と寂寥とは、この国に生れた知性人の、永遠に避けがたい運命なのだ」(「日本への回帰」、旧漢字は新字体に)
西洋に憧れ、日本の伝統に背を向けて、個の感覚に徹した自由詩を切り開いた詩人は、国粋主義が叫ばれる時代に、引き裂かれたような悩みを抱えざるを得ない。それに自覚的だからこそ、孤独と憂愁は募ってゆく。
浮ついた言葉があふれ、潜在する戦争への恐れが募る令和の今、朔太郎の憂愁と悲哀はなお、私たちの心に深く響いてくる。
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