漱石クロニクル ―絵で読む夏目漱石の生涯―
大高郁子
漱石クロニクル
―絵で読む夏目漱石の生涯―
大高郁子
第四回 「畏友 夏目金氏」―子規と出会い、漱石と号す
明治二十二年(一八八九年)二十二歳
一月頃、金之助と正岡常規は、寄席の話をきっかけに親しくなる。それまでは顔見知りだったが、親しく話したことはなかった。
一月七日、岡山から上京中の臼井亀太郎(亡くなった次兄直則の妻、小勝の弟)と早取写真師・加藤(神田区錦町)で写真を撮る。
二月五日、帝国大学の講堂で開かれた第一高等中学校第二回英語会で講演する。タイトルは“The Death of My Brother”(兄の死)。
五月一日、正岡常規は「瞿麥の巻」を書き終え、『七艸集』を完成させる。後日、友人たちに回覧して意見を求める。
五月九日夜、正岡常規は常磐会宿舎にて喀血。翌日、肺結核と診断される。喀血は一週間続き、血痰は一ケ月に及んだ。血に啼く子規(ほととぎす)の意で「子規」と号する。「時鳥」と題して四十~五十の句を詠む。(以後「子規」とする)
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
五月十三日、金之助は米山保三郎、龍口了信と共に、常磐会宿舎に子規を見舞う。帰途、子規の主治医、山崎元修のもとへ行き、病状を聞く。山崎の態度に不信感を持ち、子規に手紙で医者を変えろと勧める。また、自分の兄(直矩)も今日、喀血して病床にあると書く。
《かく時鳥が多くてはさすが風流の某も閉口の外なし。呵々。》
五月二十五日、回覧されてきた子規の『七艸集』に七言絶句九首の批評を記す。「辱知 漱石妄批」と署名する。(以後「漱石」とする)
翌日、子規のところへ持参する。
五月二十七日、子規宛の手紙に昨夜の長居を詫び、『七艸集』への自らの批評について、恥ずかしいから《一刀両断に切り棄てて屑篭の浄土へ送らせ玉へ。》と書く。また、「漱石」を「潄石」と書き間違えたらしいと書き添える。
《『七艸集』にはさすがの某も実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて当座の間に合せに漱石となんしたり顔に認め侍り、後にて考ふれば漱石とは書かで潄石と書きしやうに覚へ候。この段御含みの上御正し被下たく、先はそのため口上左様。米山大愚先生傍らより自己の名さへ書けぬに人の文を評するとは「テモ恐シイ頓馬ダナー」チョン々々々々々》
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