『 旅する少年 』
黒川創
旅する少年
黒川創
8 福井という原郷
一九七五年春、中学二年生となった私は、いよいよ「お年ごろ」で、地元の京阪・伏見桃山駅近くの「みの書店」という本屋に、自転車でせっせと通うようになっていた。書店名の「みの」というのは、経営者一族の難読の姓で、たしか「味埜」と書くのではなかったろうか。
その書店のカウンターにレジ係で立っている、高校生くらいのアルバイトの女の子が気になっていたのである。ニキビ面で、痩せて目だけが大きい、地味で内気な感じの女の子だった。とくに目を引く容姿というわけではないのだが、「本屋」と「女の子」という組み合わせに、ときめくところがあったのではないか。アルバイトだから、そこに行けば必ず彼女が働いている、というわけではない。きょうは、いるかな? と思いながら、夕食前後くらいの時間に、自転車を駆っていく。おみくじを引きにいくようなものだろう。いなければいないで、書架の本をあれこれ、ぱらぱらとめくって帰ってくる。
むろん、彼女がカウンターに立っていれば、うれしいし、購入意欲も倍加する。本をカウンターに持っていき、お金を渡して、おつりを受け取り、本を包んでもらう。ただ、それだけ。彼女の名前も知らないままだった。
太宰治の文庫本や、奥野健男『太宰治論』。松本清張のミステリー小説。河盛好蔵『親とつき合う法』。トルストイ『人生論』……。中学二年の男子の頭のなかに脈絡などあるはずもなく、こうしたものを行き当たりばったりで買っていたように覚えている。自分にとって初めての大きな辞書『広辞苑』も。つまり、この店でカウンターに立つ彼女という存在が、私のささやかな読書歴に、なんらかの痕跡を残したことは確かだろうと思う。
書架の前で立ち読みしながら、その女の子のほうをちらりと遠くからうかがうと、たまに、彼女と目が合うことがあった。
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