旅する少年

黒川創

旅する少年

黒川創

1 旅を始めるまでのこと

十代前半のころ、取り憑かれたように繰り返した一人旅について、これから私は、できるだけ具体的な事実を踏まえながら回想したいと思っている。時代としては、主に一九七三年、つまり私が一二歳になる年あたりから、一五歳ごろにかけての話となるはずだ。

なぜ、あれほど旅ばかりしていたのだろうと、いまでも、思い返すことがある。

最初はこわごわだった夜汽車の旅もすぐに慣れ、駅のベンチで仮眠をとって夜を明かし、ヒッチハイクもできるようになった。寝袋を持ち歩き、夜間締め出される駅などでは軒先で眠る。

それでも、警官にとがめられたり、補導されたり、ということはなかった。いまとは違って、世間もずいぶん鷹揚な時代だった。路傍でヒッチハイクするのを拾ってくれた地元の人が、目的地まで乗せがてら、近辺の景勝地を案内してまわって、名産品までお土産に持たせてくれたことがある。食パンの包みを大型リュックにくくりつけて歩いていると、田舎町の駅前のタクシー会社のおかみさんが、「そんなものだけ食べているの?」とあきれて「これ、持っていきなさい」と、瓶詰めのジャムを差し出してくれたりもした。

旅を続けていると、だんだん、家に帰るのがいっそういやになる。旅の終わりをひたすら先延ばしにしたいがために、さらなる移動を続けるような状態になってくる。そうすると、いくら若いとはいえ、知らず知らず、体は憔悴し、あちこちに故障も出てくる。それでも、薬局でかけあってアスピリンをわけてもらうことを覚えたりして(本当は医師の処方箋が要る)、夏休みなどのあいだは、一カ月を越える期間にわたって旅を続けるようになっていった。

そういう旅をするとき、当時の国鉄には「ワイド周遊券」というものがあり、普通列車や急行の自由席は乗り放題なので、便利だった。ただし、これには有効期限というものがある。たとえば「北海道ワイド周遊券」なら、私の郷里・京都からだと、有効期限は二〇日間である。これ以上の期間にわたって旅を続けたいときには、札幌駅のような内地に向かう特急列車の始発駅に出向いて、ホームで列車を待つOLなどの旅行者に声をかけ、周遊券を交換してもらう、という「秘伝」があった。つまり、OLたちは夏休みを取ってもせいぜい一週間なので、周遊券の有効期限に余裕を残して、本州の大都市方面に帰っていく。だから、事情を話して、互いの出発地を確認できれば、彼女たちは割合気安く切符を交換してくれる、というのだ。

ただ、少年の私は、見知らぬ相手に自分から声をかけるのが苦手で、この「秘伝」を実行に移さないまま、有効期限を越えて、北海道に残ってしまったことがある。そうした際にも、われわれのような長期旅行者(大きなリュックを背負って、列車内を横ばい状に進むので、「カニ族」と呼ばれた)のあいだでは、不正乗車を駅員に見破られない「秘伝」がいくつかあった。ジーンズのポケットに入れた状態でわざと洗濯機にかけてしまい、切符をぼろぼろにすることで、有効期限の日付を見えにくくして旅を続ける(駅員に見とがめられたら、「まちがえて洗濯機にかけてしまいました」と釈明する)、という方法。ボールペンなどで、精妙に「有効期限」の日付を書き換えてしまう、という方法(これは、明らかな偽造行為で、露見するとまずいことになったに違いない)。また、もっと微温的な方法もあった。長期旅行者のフリー周遊券は、使い込んで擦り切れてしまいがちなので、透明なプラスチック製のパス入れに挟み込んで使われていることが多かった。この状態を悪用し、「有効期限」の日付がさりげなく隠れるように、ちょっとした細工をしておく(ほかの紙切れなどもパス入れに挟み込んでおくとか)、というものだった。

私は、この最後の、微温的な方法を選んだ。だが、道東の小駅で下車しようとした際、改札口の駅員に、あっけなく見破られた。そのときは、(警察に引き渡されるな……)と、観念するとともに冷や汗が流れた。

だが、その駅員は、

「君は、もう、家に帰りなさい」

と、少し悲しそうな目をして、厳しい口調で言っただけで、放免してくれた。少年時代の私は、そうした、見知らぬ人たちから受ける無数の「善意」によって、教育されてきた。

半世紀近くを経て、そのことに、いまも感謝している。

  ●

なぜ、あんなに旅を続けたか?

もちろん、少年の好奇心の働きがあったろう。いま自分が立つ世界が、どこまで、どんなふうに続いているか。見知らぬ町や村で、どんな人たちが、何をして働き、食べ、暮らしているのか? 自分で出向いて、この「世界」の輪郭を確認したかった。

とは言え、私はまだ小学生の子どもだった。親が許さなければ、実行のすべはない。つまり、親には親の事情があって、私の一人旅を許したわけで、むしろ、より切実な理由は、そちらにあったのではないかとも思える。要するに、私には、ほかに居場所がなかった。だからこそ、旅という行動に居場所を見つけて、のめり込んだのではなかったろうか。

私が幼時を過ごしたのは、京都市左京区吉田泉殿町、京都大学近くの米屋の家である。米屋として、そこで働いてきたのは、父の両親だった。つまり、私にとっては、父方の祖父母である。父と母は、ともに同志社大学法学部に在学したころ恋愛関係を結んだらしく、結婚後、この家でともに暮らした。当時、両親はどちらも京都市職員として働く地方公務員だった。

一九六三年六月一五日、二歳の誕生日。左が父・北沢恒彦、右が母・北沢徳子

小学校一年のとき、母は私を連れて、この家を出奔し、鴨川べりに近い小さなアパートの部屋で暮らしはじめた。ただし、そこは、もとの米屋の家から、ほんの数百メートルほど離れただけの場所だった。

もともと母は東京の役人の家庭で長女として育っており、父の両親たちとの京都のごく庶民的な商家での暮らしに、なじめないところが多かった。これは、階層的な違いというより、異文化接触のもたらす摩擦のようなものだろう。母が私を連れて暮らしはじめたアパートは、風呂なし、共同便所の安アパートだったが、母がそれを気にかける様子はなかった。むしろ、自分自身の差配で生きていけるということに、満足している様子だった。やや遅れて、父も、このアパートに移ってきた。そうして、私の八つ下に妹が生まれ、さらに、その二つ下に弟が生まれる。

このあと、伏見区内の団地に、母の主導で3DKの部屋を購入し、一家で引っ越した。母としては、「核家族」型のマイホームづくりを思い描いたのだろう。左京区から伏見区への転居により、私が小学校四年生での転校を経験したのは、一九七一年五月。弟が生まれて、わずかひと月余りのちのことだった。だが、この新居に、父は、さほど長くは居着かなかった。

おのずと、日々の育児は、母が一手に負うかたちになった。もとより、母は、父をあてにするつもりもなかったのではないか。妹と弟は、それぞれ零歳児のときから、保育園に通った。伏見で暮らしはじめてからは、毎朝、二人は一台の乳母車(当時は「ベビーカー」とは言わなかった)に投げ込まれ、母は彼らを同じ保育園に預けて、京阪電車に乗り、勤めに出ていく。

とは言え、母がそれより苦労したのは、長男の私が小学校に入って以来、放課後の預け先だったのではないか。学校が夏休みや春休みの期間は、なおさらだった。なぜなら、私の小学校入学は一九六八年で、当時は、まだ、いまのような「学童保育」の制度が確立されていなかった。そもそも、夫婦共働きという就労形態が、まだ世間では少なかった。

だから、外での仕事を持つ母親同士で語らって、行政や学校と直接に掛け合いながら、自分たちで「学童保育」の運営にあたる必要があった。それだけに、私たち子どもが身を寄せる場所も、転々と替わった。あるときは、卒園した保育園に預けられ、べつのときは小学校の空き教室だった。隣の学区にある児童相談所の部屋が、学童保育に提供されて、そこまで通った時期もある。また、京大の裏手の吉田山の頂にある公共施設(「いこいの家」という名称ではなかったか)まで、毎日の放課後、通ったこともある。通り道に痴漢が出るから注意、などとも言われ、女児の親には、かえって心配でもあったろう。

こうした泥縄式の「学童保育」の運営で、母親たちがいちばんの困難に直面するのは、夏休みの時期だった。その期間には、「学童保育」も、かなり長い休止を余儀なくされる。今日で言う指導員(子どもたちは「先生」と呼んでいた)にあたる学生アルバイトの若者たちが、帰省するという事情もあったのではないか。

私の母の実家は、東京の荻窪だった。だから、こうした期間中、母方の祖父母の家に、私は長く預けられることが多かった。だが、京都と東京では、互いが遠方だけに、都合がつかないときもある。

そんなときには、母は、子連れで京都市役所に出勤した。始業前の時間に、庁舎地下の職員食堂のテーブルに私を着かせ、持参した児童書を取り出して、飲み物を何か買ってくれる。いよいよ始業時間が迫ると、母はあわただしく階上の自分の部署に上がっていく。あとは、私一人で、昼休みに母が再び降りてくるまで、おとなしく本を読んでいる。昼休みには、母といっしょに、親子丼などを注文して食べる。そして、午後一時から夕方五時まで、再度、母が仕事を終えて降りてくるまで待つのである。

小学校低学年の子どもにとって、これは、かなり苦しく退屈な時間だった。だが、子どもとしては、母がそうせよと言う以上、それに従う。母にとっては、いっそう切ないことだったのではないか。

小学校四年の夏休み。私は、朝から夕方まで市役所の職員食堂で母を待ちつづけるより、もっとましな夏休みの過ごし方を見つけた。

夏の高校野球の地方大会を一人で観戦しながら、西京極球場で朝から夕方まで過ごすというアイデアだった。私はジャイアンツV9が続く時代にテレビアニメ「巨人の星」を見ながら育った世代で、前日のプロ野球の結果を知るために、毎朝、新聞のスポーツ欄に目を通して、たくさんの漢字を覚えた。また、テレビでプロ野球を観戦しながら、スコアブックの書き方も身につけた。

母は、私のアイデアを受け入れた。市役所の食堂に一日中わが子を一人で坐らせておくよりも、よほど人間らしい夏休みの過ごし方に思えたのかもしれない。

それからは、毎朝、私の分も弁当をつくり、お茶の入った水筒とともに持たせてくれた。母は市役所に出勤し、私は途中の駅で別れて、西京極の野球場へと通っていく。雨天中止でさえなければ、そうやって午前中から夕方まで、多い日は四試合観戦し、スコアブックをつけつづけた。

次に、日曜日の日中は一人で映画館に行こう、と思いついた。ウイークデーの勤務で疲れがたまるらしく(当時は土曜も半日の勤務があった)、父も母も日曜日には昼近くまで眠っている。親が起きるまでテレビのつまらない番組(ゴルフとか、「時事放談」とか)を見ながら過ごしている、というのが、子どもの立場としては、ひどくばかばかしいことに思えてきたのだ。

初めて一人で繁華街の映画館で観たのは、小学五年生のとき、チャップリンの「街の灯」「モダン・タイムス」「ライムライト」といった作品の連続上映で、場所は河原町三条の京都スカラ座。まだチャップリンその人も生きていた時代である。これにも、母は反対せず、入場料と電車賃を持たせてくれた。

チャールトン・ヘストン主演「ベン・ハー」のリバイバル上映を観たのは、新京極の松竹座で、小学校六年生に上がる春だろう。

──子ども、一枚。──

と、切符売り場の窓口で告げると、発券係のおばさんは手を止め、私の顔をまじまじと見つめて、「観おわったら、まっすぐ家に帰るのよ」と念を押してから、子ども料金を受け取り、チケットを渡してくれた。この映画館は、古いけれども、欧米の劇場風の豪勢な造りで、二階席もあった。木箱を首から下げた物売りの係員が、「えー、おせんにキャラメル」といった風情で、物売りに回ってくるのも楽しかった。「ベン・ハー」は、70ミリのスペクタクル映画で、三時間半ほどの上映時間があるため、途中で一度、休憩が入った。そのときにも、また物売りが回ってきた。

   ●

こうした時期、たしか六年生の新学期が始まり、まもないころのことである。同じクラスの田中明彦君と片岡豊裕君という友人が、

「今度の休みに、加太かぶとまで、SL(蒸気機関車)の写真、撮りに行かへんか」

と誘ってきた。

加太?

私は、SLについて、ほとんど何も知らなかった。

SLや鉄道に関して、すでにマニア的な知識を豊富に有していたのは田中君で、彼によれば、国鉄(現在のJR)関西本線の加太駅と柘植つげ駅のあいだは、加太峠という急勾配の難所で、デゴイチ(D51)と呼ばれるSLの有名な撮影ポイントなのだという。峠の頂近くはトンネルになっていて、加太駅側には中在家なかざいけ信号所という、スイッチバック式の引き込み線を備えた列車交換(単線区間なので、列車のすれ違いを行なう)のための施設がある。つまり、このあたりは急な傾斜をなしているので、平坦な引き込み線に列車をバックで入れたところから発車させないと、荷重が大きくかかりすぎて、機関車が列車を引っぱりきれないのである。

そんな難所だからこそ、SLは苦しげな煙と蒸気を噴き上げて、勇壮な写真が撮れる、ということらしかった。

加太は三重県である。だから、出向くには、早朝に京都駅から東海道本線の草津駅まで乗り、ここで草津線に乗り換えて、柘植駅へ。さらに、関西本線に乗り換えて、加太駅へと向かう。

家にあるカメラは、母がもつコンパクトカメラだけだった。とにかく、そのカメラを借り、加太への小旅行についていった。

当時の切符類や写真が、いまも私の手もとにいくらか残っている。(自分でも驚いたのだが、京都で一人暮らしする老母のもとに、アルバムが四冊残っていた。いずれも中学時代に私が整理したものらしく、三冊が写真プリントで、一冊が切符類をまとめたものだった。また、鎌倉在住の私の家の押し入れの奥からも、今度捜すと段ボールに一箱余り、古い写真フィルムなどが見つかった。)

これらを見ると、確かな日付が残る加太への撮影行は、いちばん古いもので一九七三年五月三日のようである。これが、最初だったのではないか。

一九七三年五月三日、加太駅付近への初めての撮影行で撮ったSL

加太行きは、楽しかった。水を張る前の田地に、淡い紅紫色のレンゲ畑が美しく広がっているのが、車窓から見えたりした。

「参宮線にはシゴナナ(C57)の客車も走っとる。今度、それを撮りにいかへんか?」

田中君が、そう誘ってきたのは、そのあと、まもなくのことだったろう。ただし、亀山から伊勢へと向かう参宮線は、同じ三重県でも、加太に行くより、さらにずっと遠出となる。

「京都駅から朝五時過ぎの始発電車に乗らんといかん」

と彼は言った。

夜明け前の薄暗いうちに、家を出たのを覚えている。われわれが住む伏見の町から、京都駅までは、六キロほど距離がある。たしか、京都駅まで自転車で行ったのではないか?

私の父は、先にも触れたように、母と同じく京都市役所の職員だった。ただし、勤務先は京都市中小企業指導所といって四条室町の京都産業会館内にあり、市役所本庁舎(河原町御池)勤務の母とは違っている。父の職務は中小企業診断士で、市内各所の商店などに出向き、商売上のコンサルティングなどを行なうことが、日ごろの仕事の中心だった。

こうした公務のかたわら、父は、ベトナム戦争下での市民運動、京都ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)に加わって、その事務局長もつとめていた(一九七三年一月、ベトナム和平協定が調印されたことを受け、同年四月、京都ベ平連は解散する)。また父は、哲学者の鶴見俊輔氏らによる思想の科学研究会に参加して、雑誌「思想の科学」の運営にも編集委員として関与した。

この雑誌「思想の科学」が、子どもたちに作文の投稿をつのり、それだけで〈いま子どもはなにを〉(一九七三年四月号)という特集号を作ったことがある。私も父から作文募集の話を聞き、四百字詰原稿用紙で「一枚五百円」と教えられた原稿料ほしさに、学校の図書室などで原稿用紙一〇枚の原稿を書いて、勇んで投稿したのだった。一一歳のときである。

初めて原稿が掲載された『思想の科学』(一九七三年四月号)

この投稿には「思想」という表題をつけた。小学校での音楽の時間に子どもたちが騒いで〝学級崩壊〟が生じたさいに、私は担任の先生から職員室に呼びだされ、お前が首謀者やろ、となじられたことがあった。「お前は、アナキストだ」とも言われた。そうしたことに不満や疑問を申し述べた末に、アナキストはどういう意味か、と父に訊き、「自分のいいと思ったことは、自由にやるほうがよいという思想の持ち主のことだ」と回答を得たことで、それなら「ぼくの考え方もズバリ先生の言った通りアナキストだ」と、開き直った結論を得て終わっている。

この投稿は、幸い「思想の科学」に掲載されて、おかげで私は初めての原稿料五千円を得たのだった(原稿料は小切手で支払われ、これを現金化するために、私は初めて都市銀行に自分名義の口座を開いたことを覚えている)。こうした思わぬ収入も、SL追跡の小旅行などには役だった。

掲載された「思想」誌面。これではじめて原稿料を得た

この作文は、掲載後、思いのほか反響があり、自由学園(自由・自治を尊重し、独自の教育方針を取る学校法人)やヤマギシ会(営農・牧畜に基盤を置いて、理想的な共同体社会をめざそうとする団体)の関係者が「勧誘」に訪ねてきてくれたり、ほかの雑誌などからも寄稿を求められたりした。のちにご本人から聞いたところでは、児童文学者の今江祥智さんは、教授をつとめていた聖母女学院短大での講義で、毎年、私の作文「思想」を教材に使っていた、とのことだった。

さらに、「思想の科学」は、このあとすぐに新たな原稿依頼をしてくれた。一九七三年七月号、特集〈仕事と遊び〉掲載の「やりたい事」という原稿用紙四枚分ほどの短文である。

私にとっては、初めて関西本線の加太に出向いてSL撮影を行なってから、まもない時期に書いたものだろう。

「やりたい事」が掲載された『思想の科学』(一九七三年七月号)

われながら呆れてしまう他愛なさで、お恥ずかしいかぎりなのだが、全文を掲げておく。「旅」への誘惑に取り憑かれてしまった小学六年の少年の心持ちが、如実に表れているからだ。「文化の進んでいない国」などと書いて、「文化」をどう考えたのかを思うと、情けない。なお、「北沢恒」という筆者名は、私自身の本名である。

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やりたい事

          北沢恒

ぼくは、まずやりたい事から書きます。

ぼくは、まず、歩いてか、自転車か、国鉄のドン行かで日本中を旅したい。歩いてでも自転車でも、とにかく日本の、はしからはしまで旅をして、国鉄なら全部の線を通って、全部の駅でおりる。そして今は、全国の駅の内、約千四百の駅にあるスタンプを、全部、押したい。この事は、しょう来の事とちがって、今でもやりたいが、やっぱり金銭的な面と勇気との問題で、やっぱり、しょう来の事となろう。

コースも、ちゃんと決めてある。歩くか自転車なら……まずぼくの住んでいる京都から─鈴鹿峠─津─松坂─伊勢─尾鷲─新宮─御坊─大台ケ原─高野山─有田─和歌山─大阪一帯─吉野─奈良─亀岡─綾部─舞鶴─宮津─鳥取─松江─大田─益田─長門─美祢─山口─青野山─三次─庄原─新見─生野─西脇─明石─相生─笠岡─呉─広島─岩国─徳山─小野田─下関─北九州─福岡─唐津─平戸─五島列島一帯─佐世保─長崎─佐賀─熊本─天草一帯─八代─水俣─串木野─枕崎─鹿児島─黒島─硫黄島─竹島─種子島─屋久島─薩南諸島一帯─沖縄諸島一帯─鹿児島……四国中……瀬戸内一帯……京都で一休みして、いよいよ東北、北海道へと行くのだが、めんどくさいのでコースを書くのは、やめます。国鉄のコースも考えてあるのですが、めんどくさいので、これも書きません。

こうして日本中をめぐると、次は、世界の国々を、特に、文化の進んでいない国、文化は進んでいても、工業のあまり盛んでない国に重点を置いて、旅をしたい。こっちは、コースも何も決めてない。それから世界の国々の方は、歩くのでは、あまりにも広すぎて一生かかっても少ししか行けないと思うので、自動車、船、列車(もちろんドン行)位は、使わなくてはならないと思う。それから日本でも同じだけど、旅館やホテル等にとまらないで、野宿したり駅のホームでねたりしたいと思う。

そして、いい国があれば、家族をよぶにしてもよばないにしても、永住したいと思う。

今度は、金の方だが、初めに働くとかしてあるてい度金をつくり、あとは、旅の行先の金のなくなった所でしばらく働き、金ができたらまた動き、なくなったらまた働くと言うふうにしたい。

書きわすれていたが今度は、日数を書こう。日本をめぐる方では、歩くのでは二年、自転車なら一年六カ月、国鉄なら、ぎゃくに、ふえて一年七カ月。この数字は、初めに働く日数は入れずに、と中で働く日数は入れてある。だから初めに働く日数によって、旅の日数は、調せつできる。今度は、外国だが、外国は、七年以上かかるだろう。

こうなると各国の言葉を、おぼえなければならない。オトウサマが中尾ハジメさんが大学で英語をおしえているとか言っていた。ぼくも、そんな人に、しょう来おしえてもらえたらなァ、と思う。

この事は、今のゆめであって、しょう来も変わらないとは、限らない。いや多分、しょう来は、他のゆめを、持っているだろう。しかし今と変わらない所は、このように旅をするとすれば、数少ないにもつの中に、ぼくのタカラ物の切手が入っている事と、地味にしてもハデにしても、人のやらない事をやりたいと言う好奇心のような心だろう。

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この一九七三年八月には、東京・荻窪の母方の祖父母宅に滞在しながら、一人で、青梅線ぞいに、終点の奥多摩駅まで歩いている。羽村駅、青梅駅、二俣尾駅、奥多摩駅……と、記念に買い求めた入場券が残っている。駅窓口で売られる硬券では、子ども運賃のときには、切符の右側をハサミで斜めに断ち落とす。子ども料金の入場券は、一〇円である。

また、もう現物は私の手元にも残っていないのだが、作文「やりたい事」でも書いているように、当時は国鉄の「ディスカバー・ジャパン」観光キャンペーンの最盛期で、少年の私も、まんまとはまって熱心に駅の記念スタンプを集めていた。駅のキオスクで「スタンプノート」を買って、そこに押していくのだが、何冊も、これがたまっていく。

青梅線ぞいを歩いたのは、お盆にかかる八月一三日のことだった。天気もよく、御岳駅で渓流をなす多摩川のほうに降り、白っぽい大岩に座って、祖母が作ってくれたおむすびを一人で頬張ったことを覚えている。

夏休み直後の九月二日にも、関西本線の加太に出向いた。このときは、佐々木君というクラスメートも加わって、

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