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町田康(無料閲読)

町田康の

読み解き山頭火

前々月で終了した町田さんの連載エッセイ「寺子屋山頭火」。

今月から始まる続編では一所不在の俳人のころり往生までを作品鑑賞を軸にたどります。

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町田康

第一回「分け入つても分け入つても青い山」

若い頃は酒を飲んで暴れたり、道でヤンキーに殴られたり、人と議論して負けたり、詩を書いたり、映画に出たりと、そりゃあもういろんなことをしていた。ところが年をとって体力も気力もなくなり、自分で言うのもなにだが若い頃は女にも随分とかまわれたが、外見もuglyになったのでそういうこともない。

なにしろ電車に乗っていて若い女がまるで気のあるような目つきでこっちを見てくるので、どういうことだ。と訝りつつ、体調をチェックしていると席を譲られたりする始末。

でなにをしているかというと、なにもしていない。家にいて、ただ生存している。生存するために最低限の買い物をし、酒も最近は飲まないのでそれをひとりでもそもそ食し、後の時間はよしなし事を考えるか、寝るかしている。

昔のことは余り思い出さない。よく若くて美しかったときの写真や壮年の頃の華々しい業績をFacebookなどに投稿して、賞賛と共感を乞い求める同年代の年寄りを見るが、「ああはなりたくないものだ」と思う。

そこで、過去の栄光を投稿してる奴はアホだ、という内容の散文か詩を書いてどこかに投稿しようか、なんて考えるがしない。そういうことをする気力がないので。

しかしそれで考えが止まる訳ではなく、頭の中で考えは動き続ける。そこで仕方なくその考えを追っていくと、自分のその不快感のなかに、ともし、と思う気持ちが混ざっていることに気がつく。どういうことかというと、人の賞賛を求めないのは、なにも頓悟とんごしたわけではなく、それができないからである。だからできるものであれば自分だってFacebookに投稿して賞賛を得ればよいではないか。

ところがしない。しないで他人の批判をしている。なぜか。それは自分が投稿している人達よりもっと浅ましいからである。

どういうことかというと、いくら若く溌剌としているからといって、無名の市井人がその写真を載せて得られる賞賛などごく僅かである。下手をするとただの一人も賞賛しない、なんてこともあるだろう。しかしそれでも投稿するのはそれによって心に火が灯るからである。僅かな人でも自分に共感して気にかけてくださる。それに満足して感謝の祈りを捧げるというのは浅ましいことでも何でもなく、あべこべに謙虚な姿勢であると言える。

ところがそんな小さな賞賛では満足できないのだ。もっと大きな賞賛がほしいのだ。なぜかというと自己評価が高いから。それが得られないくらいなら最初から投稿しない。しないで冷笑的態度を取ることによって心理的な優越を確保し、自分の名聞名利を求める気持ちを誤魔化している。

名聞名利を求めず隠者となって、人里を離れた山中に庵を結ぶ。或いは諸国を流浪する。そんな暮らしに中学の頃から憧れていた人間がまともな人生を送れる訳がない。西行にだって相当な資産があって、その裏付けによって諸国を廻ることができたということらしいし、鴨長明だって無一物の乞食だった訳ではないだろう。

にもかかわらず、なにかというとすぐに西行や芭蕉の名を持ち出して隠者を気取るのは、名聞名利を得たい気持ちは人一倍あるのに、それを得ようとして失敗したらダサいし、上には上があるし、それだったら、「俺、そういうのダサいと思うんだよね、逆に」というポーズを取っていた方が、いい感じで優越感をキープできる。

「ああはなりたくないものだ」という気持ちの奥底にはそういう気持ち、はっきり言えば煩悩がある。厭離穢土おんりえど、というが、その中には、「穢土、大好きっ」みたいな気持ちがきっと含まれている。穢土は気持ちいい。大穢土温泉物語。

といったことを他にすることがないものだからずっと考える。それが老年の暮らしというものだ。考えても考えても、悔いても悔いても、その考えに終わりはない。どこまでも煩悩の山脈が続いている。だからといって考えることをやめることはできない。考えはひとりでに湧いてくる。それを追って歩き続ければ、いつか考えがやむときがくる。それは、そう死ぬる時。死なないと考えを止めること=足を止めて一箇所に留まることはできぬのだ。

って、なんかアホが書いたポエムみたいになってくる。でもそれは真実だ。

分け入つても分け入つても青い山

というのは山頭火四十三歳、大正十五年四月、山頭火が全国行脚に出発した時の句。ともらった資料に書いてある。俺はそれを引いてここに書いているだけの物知らずのアホだが、書いて全国行脚という感じはちょっと違うかな、と思う。というのは全国行脚、というとなにかこう、襷掛けて張り切って出掛けて、出掛けた先でも歓迎式典みたいなものがある的な、全国ツアー、全国遊説、みたいな雰囲気がするけれど、実際はそんな感じではなかっただろう、と思うからである。

じゃあどんな感じだったかというと、やはりこのもっと追い詰められて旅に出た感じはこれあったと思う。

その心理的な追い詰まりに関しては、こないだまでの連載に書いた。それを端的に言ってしまうと右に言ったような煩悩、もっと具体的に言うと生を貪りたい、快楽を貪りたい、という抑えがたい欲求である。

この前の一年間、山頭火は自分の内の、その欲求を一息に断ち切りたい、と考え、出家して味取みとり観音堂の堂守となった。

世の中の人はそうした欲求を小出しにして、欲求を満たしたり、満たされなかったりして、その都度、問題を先送りにしつつ一生を終えるわけだが、山頭火は、すべてか無か、みたいな感じで、一気にこれをなんとかしようとして、こんな歳になるまで失敗し続けてきたのだ。

普段、ぜんぜん怒らぬ奴というのがいたとする。そいつが怒らぬのをいいことに通りがかりに腹を殴ったり、カネを用立てさせたりしていたところ、それまで平然としていたのが、突然、怒りだし、全員にバールで殴りかかって半殺しにした、なんて話をときおり聞く。やはり人間、なんでも少しずつ発散して居ればよいが、溜まりに溜まったものが爆発すると悲惨の結果を生む。

そもそもが求道的な傾向にあった山頭火の場合はこの傾向は前からあって、それは主に乱酔の果ての狂態として現れていたようだが、特に味取観音堂の堂守、モノホンのお坊さんとなり、素朴な村人の尊崇を集めるようになってからは余計にそれがあったのではないだろうか。

つまりどういうことかというと句友であれば、酒を飲んで暴れても、山頭火さんだからしょうがないよ、みたいな感じがあって許して貰える雰囲気があったけれども、偉いお坊さん、と思われていたら同じことをしても、「えええっ? あの人、そんなことする人なの? ショック」となる。

というのを例えて言うと、勝新太郎みたいな人が、インタビューに来た女性アナウンサーの乳首を指で突いても、「ま、勝新だから、しょうがない」となるが、同じことを爽やかなイメージで女性に人気を博す若き男性タレントがやったうえで、それを正当化するような発言を行ったらどうなるかということである。言うまでもなく、批判の嵐に曝されて、その地位を失うだろう。

もちろん、どちらにしてもそのような性暴力が許されるわけはなく、勝新太郎も今を生きておればそんなことはしないだろうが、それまでさんざん世間に対して、爽やかなイメージを振りまいていた人と、「俺は悪い奴だ」と言明してきた者では、世間の糾弾の度合いはそら違いまっしゃろ? という話である。

山頭火は村人の尊崇を受け、それに答えるべく読み書きを教えたり、青年に社会情勢を説くなどしていたらしい。道心堅固なお坊さん、爽やかなイケメンの男性アナ、と思われていたのである。或いは知的でリベラルなコメンテーター。しかしその心の内には勝新が潜んでいて、酒を飲んで人に議論を吹きかけ暴れたり、寝床で脱糞したり、電車を止めたりする。

それも右に言うように小出しにして、爽やかではけっしてないが、どちらかというと脂ぎっているが、でも博学の中年アナ、くらいのところにイメージを誘導すればよいのだけれども、それができず、つい道を突き詰めてしまうのが山頭火で、自分のなかで辻褄が合わないだけなら兎も角、味取観音堂にいる一年の間に暴発して破戒のことがしばしばあったのではないかと思う。

その生のエネルギーの蓄積度合いは俗にいるときよりもえぐかったのである。

その原因を取り除こうと思ったらどうしたらよいか。まあ、一番、簡単なのは自決することで、山頭火は生涯何度も自殺を試みている。しかしそれはそれで難しい。じゃあどうするかというと、もうそういう煩悩が生まれる原因になるようなものから身を遠ざける。

脂粉の香りを嗅ぐ、美人の顔を見るから性欲が生じる。ならば、女のいるところには近寄らない。飲み屋があるから飲みたくなる。だから飲み屋のあるところには行かない。仲のよい友だちの顔を見ると飲みたくなるから仲のよい友だちに会わない。

それがなによりの煩悩防止策だ。そう思って山頭火は堂守になった。けれども人間が住んでいる以上、酒はあるし女もいて、どうしても煩悩が発動してしまう。ならば。そう、もうまったく人の居らない山中に行き、山林修行をして、頓悟にいたるしかないのではないか。

と山頭火は考えた。けれどもこの考え方がロマンチックな考え方であることはいうまでもない。なぜなら行乞流転と言って、山の中で木や草、鳥や獣に行乞したところで、一文の銭もひとつかみの米も貰えず、そこはどうしても人里に降りて行かざるを得ないからである。しかーし。行乞は確かに修行ではあるが、一般人から見ればやっていることは乞食と変わりない。つまり、観音堂にいるときのように尊敬されるということはない。だから自分も調子に乗って酒を飲んだり、女と戯れたりすることはない。そしてなにより金銭的にも常にぎりぎりなので、羽目を外して飲もうと思ったところで飲めない。それが歯止めになる。それを続けるうち、煩悩は次第に減って、澄んだ状態、理想の状態に自分もなれるかもしれない。

その可能性に山頭火はかけて旅に出たのである。

しかしいきなり行乞流転に踏みきったわけではないらしい。というのは、大正十五年四月十四日、木村緑平宛の手紙に、

あはたゞしい春、それよりもあはたゞしく私は味取をひきあげました、本山で本式の修行をするつもりであります。

出発はいづれ五月の末頃になりませう。それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に帰熊、本寺の手伝をします。

とあるからである。この手紙は望月義庵の報恩寺から出されているから山頭火は味取を出て、いったん報恩寺に戻り、一か月ほどは天草近辺を旅行し、それから本山、すなわち永平寺に行って修行する、と言っているのである。

だから、前書きの、「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」という言葉を読むと、「もう、無理」と言い、いきなり草鞋履いて青い山に、分け入つて、いったみたいな感じがするけど、割と準備段階もあったし、永平寺行きを取りやめにするという予定変更も、この間にあったのである。

で、その木村緑平宛の手紙に書くなど、一時はその気になっていた永平寺行きを取りやめるに当たってはやはりなんらかの思惑違い、思い通りにいかなくなったところがあったのだろう。だから、大正十五年、行乞途上の、荻原井泉水宛の手紙にある、

歩く、たゞ歩く、歩く事が一切を解決してくれるやうな気がします

といった、その受け身な感じには、活路が見えぬまま追い込まれるように流転の旅に出た、その姿勢が見て取れる。

俺は俳句の技術的なことはまったくわからないのだけれども、分け入つても分け入つても青い山、というのにはその追い込まれる感じが現れているように思える。もしこれを、

分け入つても青い山

と言えば、追い込まれる、愚痴っぽい感じがなくなり、さらに、も、をとって、分け入って青い山、と言ってしまえば、もっとすっきりする。

だけどそうすると人は、「それがどないしたんじゃい」と言うだろう。

後年、山頭火はこれを好んで揮毫したという。揮毫ってこれ使い方、合ってるのか。どういうことかというと、やはり最後の方、山頭火は人に知られていたし、往来を歩いていればただの乞食だが、その筋の人の集まるところに行けば歓迎される。もう酒飲みはわかっているから、「も、山頭火さんガンガン飲んでくださいよ」みたいになんぼでも飲ませてくれる。日頃、ケチケチ暮らしている人間からしたらこんな気色のよいことはなく、実は山頭火はこういうときにしばしば暴発して、その後、死ぬほど後悔する、ということを繰り返していたのである。

こういうのは俺は凄くよくわかる。俺はものぐさで旅行ぎらいなのであまりそういうことはしないのだけれど、何十年もやっていて名前が知られている割に集客力があまりないバンドが、これと同じビジネスモデル、すなわち地方の好事家の支援によって活計を立てているという話をよく聞くからである。

そんなときバンドは最近の意欲作はあまり演奏せず、人口に膾炙した往年の名曲をよく演奏する。なぜならその方が盛り上がるし、盛り上がった方が実入りがいいからである。山頭火をロックバンドと一緒くたにする気はないが、地方に行って人に取り囲まれるという空気感はそれに酷似していたと思われる。そんなとき、

「翁、一筆、たのんます」

と言われて筆を取ればやはり往年の名曲、みんなが好むものを書いただろう。もちろん自分で気に入って納得していなければ捨てて顧みないだろうから、自分でも気に入ることは気に入っていた。やはりこれが一番、受けるから、というのがあったからだと自分なんかは思ふ。

で、なんで受けるかというと、そういうわかりやすい追い込まれ、誰の心にもある、脱却できない部分が、分け入つても分け入つても、っていう調子のよさに乗って人の心に、余白を解釈するという知的な操作なしに入ってくるからではないだろうか。

だからこれは、俺なんかが俳句にしようと思うと、「今日はやめとこ思たのに酒」とか「また来てもおたソープ」みたいなことに直ぐなってしまうのだけれども、それが、言葉としてここまで飛翔するのが俳句の魔力、と言ったら怒られる、功験・功徳なのでございましょう。って、なに当たり前のことぬかしとんねんしばくど。

しばかれてもしばかれても阿呆

(次回へ続く)

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