キャンペーン情報やWeb新小説の裏話も!公式Twitterはこちら  今すぐチェックする

『 スーパーフィッシュと老ダイバー 』

岡本行夫

スーパーフィッシュと老ダイバー

岡本行夫

第4章 人間だけの物差し―殺戮

紅海の風は、たいてい、北西から吹いてくる。三月のはじめには、遠くのリビアの砂漠で巻きあがった砂嵐がやってくる。ハムシーンだ。

ナイル川をこえてやってくるその嵐は、五十日間つづく。ハムシーンとは、アラビア語で「五十」という意味だ。勢いが強いときは、外では呼吸もできない。

ハムシーンがくると、太陽は砂におおわれて、姿をかくす。海中には光がとどかなくなる。砂の粒は、こまかい雨となって、海のなかへと沈んでくる。

海のなかへは、いろいろなものが降る。太陽の光の粒も、降りこんでくる。くだける波が海中に送りこむしぶきの雨もある。夜にはきらめく月から無数の光滴が沈んでくる。

海のなかには、音がある。水が歌う調べもある。生きものたちの音は、にぎやかだ。 満月の夜に、珊瑚たちがいっせいに産卵するときは、騒がしい。魚の鳴き声も、あちこちから聞こえる。

魚の音感は、人間よりはるかにすぐれていて、わずかな音の差も聞きのがさない。海には、広い音域の音が存在するのに、人間の耳がとらえられるのは、そのうちの一部だけだ。

もちろん匂いもある。魚の嗅覚は、人間の三百倍もある。

視覚はどうか? 人間が見えるものは、可視光線とよばれる電磁波だけだ。波長がそれより短くても、長くても、見えない。太陽の光を跳ねかえしたものだけを、人間の眼は、物体としてとらえるのだ。

なぜ、人間に空気は見えないのか? 空気の分子がとても小さく、可視光線を反射しないで、そのまま通してしまうからだ。

だから、人間の眼には空気は見えない。霊や魂、森羅万象にやどる神々の姿も見えない。自分には霊が見えると言う人たちは、眼ではなく、脳で感じているのだ。

真空の中を直進してきた光は、空気の層に入る時に屈折して曲がる。そのズレは極小であるが、とにかくズレている。だから、厳密に言えば、人間が見ているものも、物体の姿そのものではない。

人間は、すべてを自分の基準で計る。空気と水は屈折率がちがうから、海中の物体は、陸上より大きくみえる。だから人間は、海中で物体が1メートルに見えても、「ほんとうは75センチだ」と主張する。しかし、それは、陸上で、人間の屈折率で計れば、ということだ。

魚たちの立場からは、「その物体は、本当は1メートルなのに、陸上では75センチに見えるのだ」と言うだろう。陸上の言い分も、海中の言い分も、どっちも正しいのだ。

人間は、音があっても、ある幅の周波しか聞こえない。物体があっても、可視光線の範囲でしか見えない。匂いがあっても、気がつかない。

それなのに、人間は、自分に見えるもの、聞こえるもの、嗅げるもの、触れられるもの、それだけで世界が成りたっていると、思いこんでいる。「自分たちが認識できるものだけが世界だ」と決めている。

陸と海。二つの世界はちがうのに、人間は、ジョージの世界をわかろうとしない。陸上に存在する音、色、匂い、光、恐れ、病気、幸福・・・。

すべて、海中にもあることを知らない。

人間たちは、「多くのものは陸上にしかない」と反論するだろう。だけど、たとえていえば、それは何だろう? 悪意、自慢、憎しみ、虚飾、欲望、嫉妬、いじめ、悩み、犯罪、ブランド・・・。

海中にしかないものは何だろう? 「食べられるものだけが価値」という基準だ。

海の生きものにとっては、繁殖期でないかぎり、一日の行動は、すべてが食べものを探すことに結びつく。

大きな魚は小さな魚を食べるが、そこに、「殺す」という行動はない。食べるのは、生命を維持する量だけだ。

人間には、憎しみや欲からだれかを「殺す」という行動がある。貧乏がイヤで盗んだり、他人をいじめて快楽を得たりする。いちばんひどいのは、戦争だ。民族全体を殺そうとまでする。

海のなかに、そのような行動はない。

海では、襲われるがわには、自分や種族をまもる手段がある。それをもつ者だけが、生きのびてきた。ジョージの場合は、体の大きさと、硬いウロコだ。こちらの体が大きければ、空腹時の凶暴なホホジロザメ以外には、まず襲われない。

しかし、ヒトという種族は、ゲームとして他の生きものを殺戮する。対象が大きいほど、関心は大きい。なにしろ殺した獲物の重量をきそいあうのだから。

人間は、巨大な鉄の爪のついた「底引き網」などの漁業で、稚魚もふくめて、海の生きものを根こそぎ、さらっていく。 

海の食物連鎖の輪のなかに入っていない人間は、生きるためでなく、嗜好のために、海の生きものを食う。飽食したあとは、余ったもの、新鮮でなくなったものを、捨てる。人間は何でも食う。ジョージは知らないが、中国人は、ナポレオンフィッシュの肉が大好物だ。美味だからと。

人間は、なぜ余計に食べるのか? 副交感神経をリラックスさせるためだ。精神衛生のために、体が食うことを要求するのだ。こんな生物は、ほかにはいない。

人間は、自分勝手だから、文明の征服者となったいま、魚や動物たちにも、それぞれの世界があることを知ろうとしない。

(次回へ続く)

【おことわり】

著者・岡本行夫さんは惜しくも424日にお亡くなりになりました。ご本人、ご家族の遺志を尊重し、フォト小説の連載を予定通り、続けさせていただきます。

最新号のコンテンツ

連載 連載小説 (2021年9月号)

猛獣ども

別荘地で熊に殺された男女…不穏な波紋の広がる先は。注目の新連載

連載 連載詩 (2021年9月号)

最少の言葉で詩作する試み

言葉の意味から滲み出すものを探る。最少の言葉で紡ぐソネット最終回

谷川俊太郎

連載 連載詩 (2021年9月号)

週末のアルペジオ

走り去る列車が映し出す過去。適切な孤独が作り出すふたりの未来

三角みづ紀

連載 エッセイ (2021年9月号)

町田康の読み解き山頭火

一所不在の俳人・山頭火。作品を鑑賞しながら縦横無尽に人生をたどる

連載 イラスト評伝 (2021年9月号)

エピソードで知る種田山頭火

生涯を放浪の中に生きた山頭火。行乞の日々とはどんなものだったのか

春陽堂書店編集部

連載 動画 (2021年9月号)

待ってました! 黙阿弥歌舞伎への招待

坂東彦三郎の朗読とGIFアニメで楽しむ電脳紙芝居第6弾「髪結新三」

春陽堂書店Web新小説編集部

連載 エッセイ (2021年9月号)

兼好のつれづれ絵草紙

同じ言葉でも誰に言われるかで変わる?「おい、その咄誰に習った?」

三遊亭兼好

連載 ウェブ絵巻 (2021年9月号)

漱石クロニクル ―絵で読む夏目漱石の生涯―

ロンドンで化学者・池田菊苗と共に過ごし、大きな刺激を受ける

連載 俳句鑑賞 (2021年9月号)

楸邨山脈の巨人たち

加藤楸邨門下を読み解くシリーズ。冷徹な作風の女流・寺田京子第一回

連載 医学ミステリー (2021年9月号)

Dr.よねやまの芸脳生活 芸術家の生き様を医学で考える

最晩年まで安定して執筆を続けた常識人・泉鏡花の稀有な作家人生とは

連載 動画&エッセイ (2021年9月号)

假屋崎省吾の絶品紀行~日々を華麗に彩る~

9月9日は重陽の節句。品格があり高潔な菊は大人の雰囲気にぴったり

假屋崎省吾

連載 紀行エッセイ (2021年9月号)

銭湯放浪記

ウワサの銭湯見たさに新幹線で京都へ。目の前に現れた贅沢な空間は?

連載 動画 (2021年9月号)

Dr.よねやまの芸脳生活

熱海の物語と尾崎紅葉~Dr.米山の必見動画第16弾

連載 動画 (2021年9月号)

町田康のパンク山頭火ラヂオ

徒然なるままに山頭火を語る町田版自由律YouTube。注目の第4回配信

Web新小説会員登録はこちら