登録初月は無料!バックナンバーも読み放題!会員登録はこちら   今すぐチェックする

『 初回無料閲読 』

井上荒野(無料閲読)

猛獣ども

井上荒野

小松原慎一

今日は忙しい日になるだろうと思っていたのだが、予想をはるかに超えて忙しくなり、というか予想もしなかったとんでもない日になった。

そういうことが俺の人生にはよく起きるよな、と小松原慎一は思い、あらたなダメージを受けた。管理人をしている別荘地内でふたりの男女が熊に襲われて殺されたことよりも、そのダメージのほうが大きいかもしれなかった。

朝七時前、その事故のことを慎一が知ったのは、悲鳴によってだった。被害者たちのものではなくふたりの死体を最初に目撃した女性が上げた悲鳴で、といっても慎一が直接聞いたのではなく、悲鳴を聞いた住人からの電話を受けたのだ。現場は別荘地の南端の、川に沿った山道で、電話をかけてきたのは、その近くに定住している扇田さんの奥さんだった。さっきからずっとものすごい声が聞こえてるんですけど、どういうことなんでしょう? 扇田夫婦は別荘地の新参者にしてすでに名うてのクレーマーとなっていたから、慎一はいつものように聞き流していた。けれどもそのうち、電話口を通してその悲鳴が聞こえてきたのだった。近くといったって扇田さんの家は川のこちら側のずっと下のほうで、後からわかったことだが現場までは一キロ近くある。どれほどの悲鳴だったかということだ。

慎一が軽トラでその場所に行き着いたとき、悲鳴の主、神戸ごうどさんの奥さんはもう静かになっていた。夫が奥さんを抱きかかえるというか確保していて、彼の腕の中で奥さんはやりきったような顔をしていたので、最初慎一は、目の前の惨劇の犯人は神戸夫人かと思った。それから神戸氏と言葉を交わし、熊の仕業であることに思い至って、慌ててふたりを軽トラに押し込んだのだった。

管理事務所から一一〇番通報し、パトカーと救急車を先導して再び軽トラで現場に向かったが、熊がまだ辺りをうろうろしているかもしれないということで、いったん事務所に戻っていてくださいと言われたのは助かった。赤く染まったボロ切れみたいにたおれているふたりについて、別荘地の住人ですかねと聞かれても、じっと見ることなどできないから答えようもなくて、そもそも四百棟あまりを有する別荘地の全利用者を把握しているはずもない。今は六月のはじめで来荘者は少ない時期でもあり、とりあえず、定住している四十三世帯に端から電話をかけて安否をたしかめることにした。

これがまた予想以上にやっかいな仕事だった――家にいる人たちはみんな、この辺りではめったに聞くことがないサイレンに耳をそばだてているところだったから、安否確認だけで話が終わるはずもない。説明できることを説明して、現場には絶対に近づかないでください、できれば家の外にも出ないでくださいと念を押して、ようやく電話を切ると、その瞬間に電話が鳴り出し、また説明し、念を押し、かけて、切って、また鳴り出して・・というほとんど無限ループにおちいった。結局、定住者は全員無事だった。それがわかったときには慎一はぐったり疲れて、ひどい頭痛がしていた。自分の部屋でまだ片付けていなかった布団の上に寝そべったとき、ガチャリと鍵がまわる音がして、ドアが開いた。

「おはようございます。小林です」

という声はとくに張り上げているふうでもないのに、妙に明瞭な感じだった。慎一は急いで起き上がり、玄関に出て行った。

「おはようございます。はじめまして。小松原です」

「はじめまして。今日からよろしくお願いします」

そう返してすっと頭を下げた女は姿勢を元に戻すと、まっすぐに慎一を見た。身長百八十センチの慎一よりも頭ひとつぶんくらい小さく、華奢な体躯で、茶色がかったまっすぐな髪を肩まで垂らし、黒いニットのアンサンブルにチノパンという姿で、オレンジ色の口紅をつけていた。小林七帆、二十五歳というプロフィールを慎一はすでに得ていた。三歳年下のこの女は、先月、更年期障害がひどすぎるからと管理人をやめた女性の後任として、この別荘地を運営している不動産会社の東京本社から転任してきて、今日が初日だ。なにかやらかしたんだろうと思っているが、その辺のことは知らされていない。

「どうぞ。中に入ってください」

そう言う自分の声が裏返っているのを慎一は感じた。なぜなら小林七帆は、かつて愛した女に似ているからだ。どこがどう似ているというのではなく、全体的な佇まいが似ていた。そういうふうに似ているというのは具体的に似ているよりマズいように思えた。自分の心の問題なのかもしれないからだ。

「まあ、とにかく、お茶でも」

慎一は逃げるように台所へ向かった。慎一は不動産会社の社員だったわけではなく、山の麓の別荘地の住み込み管理人募集という求人に応募して、ここへ来た。応接室の隣の八畳間と風呂が居住スペースで、トイレと台所は、管理人室エリアと共用ということになっている。

自分用に備えている薬草茶と、来客用のほうじ茶のどちらを出すべきか迷い――これまで昼食時にお茶を飲むときは、前任の女性がほうじ茶を淹れてくれた――、ここはほうじ茶だろうと自分に言ってその缶に手を伸ばしたところで「あの」と背後からまた明瞭な声がかかった。

「何かあったんですか。パトカーを見ましたけど」

応接室とキッチンとはカウンターで緩く仕切られており、そのカウンターの向こうに小林七帆は立っていて、そう言った。その瞬間、慎一は、自分が今朝の事件のことをすっかり忘れていたことに気がついた。

「熊が出たんですよ」

ああ、俺は間が抜けていると思いながら慎一は言った。

「熊」

と七帆は繰り返してクスッと笑った。そのせいで慎一はいっそう屈辱的な気分になった。そのうえ七帆のその笑いかたは、愛していた女が自分を捨てたときのことを思い出させた。

「男女が亡くなったんですよ、襲われて。ひどい光景でしたよ」

「見たんですか?」

「ええ」

「男と女だったんですか?」

「え? ええ、たぶん・・」

「たぶん」

七帆は今度は笑わずに呟いたが、そのトーンは再び慎一を落ち着かなくさせた――実際のところ、彼女があらわれて以来、ずっと落ち着いていなかったが。

もういいだろうと思って慎一は七帆に背中を向けた。茶葉を急須に入れながら、あれは男と女だったんだろうか、と考えた。

神戸夫婦や警官がそう言ったわけでもないのに。ろくに見もしなかったのに。わかったのは、このふたりはもう死んでいる、ということだけだった。あまりの光景に近づくこともできなかったが、それだけはわかったのだ。というか、わかったから近づけなかった。体型とか服装とかも一瞥ではわからない有様だった。どうして男と女だと思い込んでいたのだろう。

「あの」

とまた小林七帆が言った。背中に何か液状のものを投げつけられたような気が慎一はする。

「熊は捕まったんですか?」

「いや」

慎一はもう振り返らずに答えた。

「私たち、お茶飲んでる場合じゃないんじゃないですか?」

その通りだと慎一は思い、指摘されるまでそのことについて考えなかった自分に愕然としながら、薬缶をかけたコンロの火を止めた。

やっぱり何かやらかしたんだな。

慎一は考える。

なぜなら小林七帆は、有能だからだ。こんなに仕事ができる人間が、東京本社からこんな山の中に飛ばされたのには、それなりの理由があるだろう。俺のように、自分で望んでこの地に来たとは思えない。

今ふたりは、「オフィス」ということになっている東側の和室――応接室を挟んで居住スペースと反対側にある――で、窓に向かって二台並べたスチールのデスクの前にそれぞれ座っていた。七帆はパソコンで作業し、慎一はファクス兼用の電話で東京本社の担当者と話していた。

報告したり質問したりするたびに、「ちょっと待ってて」と電話を保留にされ、通話は長くかかった。ようやく受話器を置くと、待ちかねていたように七帆が「確認してもらえますか」とプリントアウトした紙を差し出した。熊出没を警告するポスターの草稿だった。「危険!」という大きな赤い文字の下に、どこからか探してきたらしいリアルな熊のイラスト、その下に次のような文言が記されていた。

本日六月二日早朝、当別荘地内で、二人が熊に襲われる事故が起きました。熊はまだ捕獲されていません。現場付近でなくても、別荘地とその周辺で遭遇する可能性があります。徒歩での外出はお控えください。お子様やペットを家の外に出さないでください。熊を見かけた方は管理事務所までご連絡ください。電話番号 @@-@@@@@

「うん、いいと思うよ。ありがとう」

男女じゃなくて「二人」としたわけだな、と思いながら慎一は言った。

「何枚プリントしますか」

「そうだな、とりあえず二十枚」

プリンターが作動している間に、別荘地のホームページに七帆がアップした「お知らせ」についても確認を求められた。うん、完璧だと思う、と慎一は言った。プリントアウトされたポスターを持って、立ち上がった。

「これ、掲示してきます。留守中に電話が入るかもしれないけど、大丈夫かな」

「対応します」

当然でしょうという顔で七帆は頷いた。部屋を出て行こうとして、慎一は振り返った。

「別荘の住人から電話があったら、あなたが新任の管理人であること、最初に言ったほうがいいかもしれない。いろいろうるさい人もいるから」

七帆は肩をすくめた。その反応のせいで、軽トラを発進させてからもずっと、あんなこと言うべきじゃなかったと後悔することになった。新任の管理人が男だったら、いや女でも、小林七帆のような女ではなかったら、あんなことは言わなかっただろう。いや――どんな女が来ても、俺は伽倻子のことを思い出したのだろうか。俺が東京を離れここの管理人になってから三年で、この頃はほとんど思い出さなくなっていた。今日、俺の前にあらわれたのは小林七帆というより伽倻子の記憶だったということだろうか。

この別荘地は八ヶ岳の南麓に、東西に向かって細長く延びている。慎一は軽トラを、まず最西の別荘地の入口に向かって走らせた。途中、何台かの車とすれ違った。住人の自家用車でなく、事故現場に向かう車であるように思えた。報道関係かもしれない。そうだ、その対応もしなければならない。管理事務所に電話して来た相手に七帆がどう思われるかなど、心配している場合じゃない。

車を降りると別荘地の看板の上にポスターを一枚貼った。再び乗り込み、来た道を戻る。別荘地内に十数箇所ある、区画を示した案内板にポスターを貼りながら東側へと登っていった。熊が出た道とほぼ並行している、別荘地内のメインストリートを走っていたが、人の姿はなかった。熊のせいかもしれないが、このシーズンにはふつうのことでもある。管理事務所を通り過ぎ、登山口があるほうへと登っていく。「山と愛」という臆面もない名前のペンションが併設しているカフェも今日は閉まっていた。人を見かけたのはそこからさらに登って、別荘地内で最も標高が高い地区へ入ったときだった。

白髪の女性がぬっと車の行く手にあらわれた。「エウレカ」という美容室をやっている伴レイカさんだった。車の音を聞きつけて家から出てきたらしい。定住者だから、さっきも電話で話していた。慎一は車を止めて窓を開けた。

「何かわかった?」

レイカさんはたぶん七十歳前後で、同じ年回りの夫とふたり暮らしだ。職業柄なのかふたりともいつも洒落た出で立ちなので、こんな山の中ではよく目立つ。

「とくに何も・・。だめですよ、家から出てきたら。熊はまだうろついているんだから」

慎一にとってレイカさんは、別荘地の中では話しやすい相手だった。

「月見町の人たちらしいわね、殺されたの」

「えっ、そうなんですか。なんで知ってるんですか」

月見町というのは別荘地から車で二十分ほど下りていった先の町だ。

「みんな言ってるわよ。月見町の男と女だって」

「男と女」

「なんでこんなところまで来てたのかしら。それもわざわざあんな山道に」

「山菜とか採ってたんですかね」

「何言ってんのよ、山菜の季節じゃないでしょ」

「なんでわかったんですか、月見町の男と女だって」

「だから、みんなが言ってるんだって。あたしは電話で聞いたんだけどね、小副川さんから」

レイカさんは、やはり定住者である老人の名前を出した。小副川さんはどうやって知ったのだろう。現場まで出かけたとは思えず、とすればやっぱり誰かから電話で聞いたのだろう。定住者の間には連絡網的なものがあるのかもしれない。

「とにかく、家の中にいてくださいよ。進展があったらホームページに書きますから」

車の窓を閉めようとして、慎一は途中で止めた。

「そういえば今日から新しい管理人が来てるんですよ。森田さんのあとの」

「あらそう。女?」

とレイカさんは言った。

小林七帆

きっと死ぬほど退屈なんだろうな、と覚悟を決めて初出勤したのだが、実際には思いのほか退屈しなかった。ただ、今日はどう考えても通常ではないから、早晩退屈になるんだろう。それにしても熊による死亡事件とは、すごい歓迎もあったものだな、と小林七帆は思った。

ホームページへの告知だけでなく、登録されている別荘オーナーのアドレスへ一斉メールを送るべきだろうと思い、その文面を作ろうとしていたのだが、小松原慎一がポスターを持って出ていくと、七帆の手は自然に止まった。あらためて、室内を見渡してみる。安普請の山小屋だ。応接室の窓のひとつが病院の受付けのような出窓になっていて、玄関ドアを開けぬまま来訪者と話せるようになっているほかは、ごくふつうの住居の間取りだ。

実際、小松原はここに住んでいるわけで、そんなところで日中だけとはいえ男と女がふたりきりで過ごすことになるのを、会社から当然のように受け入れさせられているというのもすごいことだ、と七帆は思う。前任者は土地の人で、五十だか六十だかのおばさんだったというのは何となく知っていた。そのとき問題が起きなかったから、今度もオーケーだろう、ということだろうか。まあ、起きないだろうけれど。小松原は理性に本能が勝るタイプには見えないし、そもそもその種の本能が充実しているようには見えない。

問題を起こすとしたら私からだと、私をここへ送り込んだ人たちは思っているのかもしれない。私は前科者なわけだから。問題を起こすことを、もしかしたら望まれているのかもしれない。そうすれば今度こそクビにできるから。残念ながら私にしたって、小松原みたいな腑抜けた男には何の興味も持てないけれど。まあ、死体を見たばかりらしいから無理もないところもあるけれど、死体を見たくらいで腑抜けになるような男は私は願い下げだ。

また電話が鳴り出した。こんな寂れた別荘地の管理事務所など管理人ひとりで十分だろうと思っていたのだが、外仕事も多いから、こうして留守中の電話に応対する者が必要なわけだ。そう思いながら七帆は電話を取った。

「はい。管理事務所です」

「・・あら? 小松原さんは?」

女の声が言った。さっき、小松原が出かけてすぐかかってきた電話も女からだった。

「小松原は今、外出中です。私は今日からこちらで仕事をすることになりました、小林と申します」

このくらいのことは、わざわざ注意されなくても言える。

「森田さんのあとの方?」

「はい。よろしくお願いします」

「それはどうも。こちらこそ。で、どうなりました、熊関係は? もう危険はないのかしら?」

「いえ、まだ危険です。警察と猟友会が捜索している最中です。進展はホームページに順次アップしますので、チェックしていただければと思います。それで、失礼ですが、お名前を頂戴できますか」

一瞬、間が開いた後、

「東雲です、N122の」

と女は言った。あきらかに気分を害していたが、電話をかけてきたなら名乗るのが当然だろう。小松原や前任の女がどうしていたのかは知らないが、私は私の考えできっちりやろう、と七帆は思う。なめられたら終わりだ。

「月見町のふたりは、なんでここへ来てたんですか」

仕切り直すように女は――東雲さんは言った。

「月見町のふたりって?」

「まだそちらには伝わっていませんか? 熊に殺されたのは月見町の若い男と女なんですって。別荘地とは無関係の人たちが朝早くに入り込んで何をしてたのかって、熊よりそっちを心配してる方もいるみたい」

「了解しました。オーナーの皆様に必要と思われる情報が入りましたら随時ホームページにアップいたします」

好奇心を満たすためだけの情報はアップしませんよ、という意味を込めて七帆はそう言った。さっき電話をかけてきた女――ペンション「山と愛」の人だと言っていた――も、熊の動向より、死んだ人たちのプロフィールのほうを気にしていた。田舎というのはそういうものなのか、あるいはこの別荘地がそういうおかしな場所なのか。

「弁当、持ってきた?」

正午少し前に戻ってきた小松原の、最初の言葉がそれだった。持ってきましたと答えると、「洋食? 和食?」と彼は聞いた。七帆は苦笑しながら、おにぎりをふたつ取り出して見せた。昨日、スーパーで買っておいたものだ。

「じゃあお茶でいいね」

出かける前の丁寧語がなんとなくほどけていた。自然にそうなったのか、ポスターを貼って回りながらそうしようと決めたのか。きっと決めたのだろうと七帆は思った。あきらかに小松原のほうが年上だし、上司といっていい立場だし、そのほうが自然ヽヽだから。そういう考察を一生懸命しそうなタイプに見える。それから小松原は七帆の掌の上のおにぎり――ビニールで包まれ、値札もまだついたままの――をあらためてじっと見て、「電子レンジあるから」と言った。

応接室で向かい合って昼食をとった。お茶は小松原が淹れてくれた。「薬草茶だけど」とのことだった。ちょっとクセがあったが七帆はお礼だけ言って黙って飲んだ。「どんな薬草ですか」とか「こういうお茶に詳しいんですか」とか聞いてみるという選択肢もあったが、面倒だったので却下した。そもそもお茶にも薬草にもまったく興味がない。ここでの人間関係に際しての努力は必要最低限にしようと七帆は決めている。

それで、ふたりはほとんど無言で食べた。小松原は自作であろう弁当を食べていた。俵型の木製の弁当箱に白米が詰められ、上に魚の味噌漬けらしきものと、ピーマンの何かと、漬物がのっている。料理ができる人なんだな、と七帆は思ったが、やはりコメントはしなかった。

「なんだか、とんでもない初日になっちゃいましたね」

ふと顔を上げて、小松原が言った。また丁寧語に戻っていたが、そのとき七帆は、彼の顔をはじめてちゃんと見た。イケメン、とまでは言えないが、整った顔立ちをしている。面長でやさしげで、ちょっと鹿に似ている。デニムにストライプの木綿のシャツという格好で、まくりあげた袖からのびた腕は引き締まっていてよく日焼けしていた。こういう男が好きな女もいるだろう、と七帆は思った。

「大丈夫です」

と七帆は答えた。その言葉は自分で思っていたよりずっとそっけなく響いて、小松原はそれきり黙ってしまった。

午後も電話の対応に追われた。別荘地の住人からの電話が少なくなったかわりに、警察や新聞社からのものが多くなった。質問ばかりで、与えられる情報は少なかった。人殺し熊は依然として捜索中で、別荘地の定住者たちの間を駆け巡っているらしい「被害者は月見町の若い男と女」という噂の真偽も、それ以上のこともわからなかった。

「お疲れ様。もう定時なので帰っていいですよ。何かあったら連絡しますので」

六時少し前に、小松原が言った。お疲れ様でしたと返して、七帆は管理事務所を出た。

駐車場のほうへ歩き出そうとして、郵便ポストに折りたたんだ紙が差さっていることに気がついた。何か奇妙な気配を感じて、七帆はそれを抜き取ってみた。パソコンのプリントアウトに使うようなA4版のコピー用紙で、開いてみると、以下の文言が活字でプリントされていた。

車はメタリックブルーのジムニーで、自分で買うならこんな色は絶対に選ばないが、会社のリースで、最寄りの――といっても別荘地から高速のインター三つめの距離だが――ディーラーに行くとすでに車種も色も決まっていた。管理人はそれらしく目立つ車に乗れということなのかもしれないが、いやがらせのような気もしている。

その車で、月見町へと下っていく。熊に殺された人たちが住んでいたらしい町であり、七帆のアパートがある町でもある。住宅手当が五万円しか出ないというのでこれも懲罰的なことかと思っていたが、駐車場付きの四十五平米の1LDK、駅まで徒歩十二分で賃料五万五千円という物件が、あっさり見つかった。マンションではなくアパートであることが不満だったが、この辺りにはそもそもマンションというものが見当たらないので、仕方がない。

そのアパート「ローズガーデン第二」――この名称も不満のひとつだ――へ戻る前に、七帆はスーパーマーケットに立ち寄った。日常の買い物ならだいたいここで事足りる。というかコンビニというものがないので、ここを活用するしかない。

地元農家と提携しているとかで、入口付近には生産者の名前入りの袋に入った野菜が山積みされているが、いつものようにそこは素通りし、惣菜売り場で夕食用に「鶏の山賊焼き弁当」とポテトサラダ、それに明日の弁当用に「ハンバーグ弁当」をカゴに入れた。シリアルと牛乳とヨーグルト、それからハッと思い出して売り場を探し回り、蟻用の置き型殺虫剤も。忌々しいことに、浴室に蟻が大量に湧いているのだ。

こんな田舎でもスーパーの営業は午後八時までで、今は売れ残りに値引きの札が貼られる時間帯でもあるのだろう、店内はそこそこ混んでいた。レジに並んでいると、背後から別荘地の名前が聞こえた。さっきあとにしてきたばかりの別荘地の名前だ。思わず耳をそばだてる。やっぱり熊のことを話しているらしい。買い忘れたものを思い出したようなふりで振り返ってみると、話しているのはすぐ後ろに並んでいる六十歳くらいの女と、その後ろの七十歳くらいの女だった。

「・・みんな知ってたって。近所の人、みんな。だって朝の五時六時に車並べて、堂々と出かけていくわけだから。朝早いって言ったって誰かは見るでしょ。ああ、またあの車だ、あのふたりだって思うじゃない」

「家の人、なんで好きにさせてたんだろうね」

「みんなそう思ってたって。・・さんはそのまま仕事に行ってたらしいよ。私の妹の知り合いが、同じ会社なんだよね。みんなびっくりしてるって。普通に家から出勤してきましたって顔で働いてたって。あっちのトルコ料理のほうは、ほら、もともとそんなに親しい人もいないじゃない?」

「いつ潰れるだろうって、みんな言ってたもんねえ」

そこで七帆の会計が終わり、その場を離れざるを得なかった。もっと聞いていたかったが、それでも幾らかの追加情報は得ることができた。「みんな」って何人ぐらいを言うのだろうと考える。そういえば前の会社で異動を通告されたときにも「君のことでみんなが困ってる」と言われたのだった。

車に乗り込み駐車場を出たが、アパートとは逆方向へ走った。そちらへ行くと商店街――ともいえない、個人商店がポツポツとある通り――で、引っ越してきた当初歩いてみた――そして失望した――ときに、トルコ料理の看板を見たことを覚えていたからだ。目に留まったことが不思議になるくらいの、ハガキより少し大きいくらいの看板で、東京なら「隠れ家的」と言われるのかもしれないが、こんな場所だと実際のところ隠れているみたいだ、と思ったものだった。

狭い通りをゆるゆると走っていくと、その看板が見えた。ブリキみたいな青い金属に、臙脂色で「トルコ料理 kokkai」と記されている。ガラス張りのドアもその横の窓も、看板の文字と同じような色の厚ぼったいカーテンに内側が覆われていて、店内は見えない。ドアノブには「closed」の札がぶら下がっている。誰なのかは知らないが、身内あるいは関係者が熊に襲われて死んだのが本当ならば、店を開けるはずもないだろう。でも、そういえば、前回見たときも同じ状態だった気がする。とにかく、眉をひそめはしても、こんな田舎でトルコ料理が食べられるなんて嬉しい、という気持ちにはならなかったことはたしかだ。

さっきレジで後ろにいた女たちの夫たちのような年恰好のふたりが前方から歩いてくる。おそらく七帆同様にトルコ料理屋を見学に来たのだろう、すれ違いざま七帆の車をジロジロ見た。

冷蔵庫の中には缶ビールと牛乳とヨーグルト、それに萎びたキュウリ三本だけが入っている。キュウリはここへ来てはじめてさっきのスーパーマーケットへ行ったときに、なんとなく買ってみようかという気分になってカゴに入れたのだが、結局、冷蔵庫に突っ込んだまま一週間が経っている。七帆はキュウリと缶ビールを取り出して、キュウリはゴミ箱へ放り込んだ。洗って切ってマヨネーズをかける程度の「自炊」も、自分には無理なのだ、と再認識する。そもそもマヨネーズがない。

すでに着替えてコンタクトレンズも外し、眼鏡をかけている。ソファに座ってテレビをザッピングしながら、弁当とポテトサラダを食べ、ビールを飲んだ。東京で住んでいたワンルームマンションの部屋に比べると今の部屋はずっと広いから、ダイニングテーブルと椅子二脚のセットとソファを量販店で適当に揃えた。空間が余っているしテーブルやソファはあったほうが便利だろうからそうしただけで、食べること同様に、インテリアにもほとんど関心がない。

東京の部屋にあった家具らしい家具はベッドだけだった。やっぱり量販店で買ったシングルベッドだ。あとはカラーボックス。お盆に脚がついたみたいな、ちゃちな折りたたみの座卓。食事をするときにはベッドを背もたれにして、クッションに座って食べた。週のうち三日は日向ひゅうが友郎が横にいた。二人で食べるのはやっぱりコンビニの弁当や惣菜ばかりだったが、その食事ともいえない食事を終えると――ときどきは食事の途中で――ベッドに上がって裸になって抱き合った。

七帆は二缶目のビールを冷蔵庫に取りに行き、そのついでにバッグの中からさっきの紙片も取り出して持ってきた。缶のプルタブを開け、紙片に記された言葉をあらためて読む。「このふたりは姦通していた」か。これまでに得た情報からすれば、たぶんこれは事実なのだろう。トルコ料理屋の誰かと、会社勤めの誰か。ふたりとも二十代。家族がいた。姦通なのだから、ふたりとも、あるいは片方が結婚していたということだろう。それにしても「姦通」とは。古臭いというより、何だか殊更な悪意を感じる。そういうことをあらわすのに、いちばんイヤな言葉を使ってみた、というような。

この紙を管理事務所のポストに差し入れたのは誰だろう? 別荘地内の住人だろうか。月見町の誰かがそのために車で登ってきたのだろうか。「このふたりは姦通していた」何度読んでも笑ってしまう。まるで私宛の手紙みたいだ。まるで友郎の奥さんが東京からこの紙を持って管理事務所までやってきたみたいだ。

(次回へ続く)

最新号のコンテンツ

連載 連載詩 (2021年11月1日号)

週末のアルペジオ

いらないものを箱につめていく。会いたい……かつてあいしたものに

三角みづ紀

連載 連載小説 (2021年11月1日号)

猛獣ども

悪天候の別荘地に立ちすくむ管理人ふたり。傷ついた過去がよみがえる

連載 エッセイ (2021年11月1日号)

町田康の読み解き山頭火

人間の完成を目指す道を歩む山頭火。その真っ直ぐな道のさみしさとは

連載 イラスト評伝 (2021年11月1日号)

エピソードで知る種田山頭火

松山に結庵した山頭火は、その翌年、望んでいたとおりの最期を遂げる

春陽堂書店編集部

連載 動画 (2021年11月1日号)

待ってました! 黙阿弥歌舞伎への招待

坂東彦三郎の朗読とGIFアニメで楽しむ電脳紙芝居第8弾「鋳掛松」

春陽堂書店Web新小説編集部

連載 エッセイ (2021年11月1日号)

兼好のつれづれ絵草紙

噺家の世界で風呂敷は「ふるしき」。お客様からの差し入れはロシアの…

三遊亭兼好

連載 ウェブ絵巻 (2021年11月1日号)

漱石クロニクル ―絵で読む夏目漱石の生涯―

執筆に追われ忙しくも充実した日々。漱石40歳、朝日新聞社入社を決意

連載 俳句鑑賞 (2021年11月1日号)

楸邨山脈の巨人たち

生粋のコミュニストであり、社会性俳句を代表する古沢太穂の第一回

連載 医学ミステリー (2021年11月1日号)

Dr.よねやまの芸脳生活 芸術家の生き様を医学で考える

海外小説の翻案でヒット連発の尾崎紅葉。連載の重圧が寿命を縮めたか

連載 動画&エッセイ (2021年11月1日号)

假屋崎省吾の絶品紀行~日々を華麗に彩る~

カーリィー流の美の世界が結実した豪華な着物の紹介で眼福の最終回!

假屋崎省吾

連載 紀行エッセイ (2021年11月1日号)

銭湯放浪記

祭りの前日、秩父神社を巡る小さな旅。そこで出会った古い銭湯に感激

連載 動画 (2021年11月1日号)

Dr.よねやまの芸脳生活

ベストセラーの法則~Dr.米山の必見レクチャー18弾

連載 動画 (2021年11月1日号)

町田康のパンク山頭火ラヂオ

徒然なるままに山頭火を語る町田版自由律YouTube。注目の第4回配信

Web新小説会員登録はこちら

登録初月は無料