Dr.よねやまの芸脳生活 芸術家の生き様を医学で考える
米山公啓
Dr.よねやまの芸脳生活
芸術家の生き様を医学で考える
米山公啓
第二十四回 武者小路実篤と長命の秘密 ③
晩年の生き方を学ぶ
九十歳の時に描いた色紙(実物は桃、栗、柿の絵)のメッセージ、「達磨は九年で俺は一生」は実篤の創作だ
画/米山公啓
大正12年9月1日、関東大震災が起こった。
大正から昭和の時代に入る時期であり、文壇も昭和の時代に変化しようとしていた。実篤は8年住んだ宮崎県の日向から大正14年、奈良に一時、転居したが、病身の母親の近くにいたいために昭和2年に東京に戻った。
実篤の活動の場であった『白樺』は、大正12年8月号で終刊となった。
このあたりから、作家として失業の時代になった。50歳を前にして、大手出版社からの原稿依頼が来なくなってしまったのだ。
実篤くらい名が売れていれば、書けなくなって本が出せないことはあっても、周囲の変化によって本が出せなくなるとは想像できないだろう。
しかし、それは十分、ありうることだ。おそらく、実篤は時代の変化に次第についていけなくなり、「書いても売れそうにない」と、出版社側に判断されてしまったのだろう。
実篤はしかたなく、講談社に「原稿を書かせて欲しい」と売り込みに行く。
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