登録初月は無料!バックナンバーも読み放題!会員登録はこちら  今すぐチェックする

『 『旅する少年』刊行記念 黒川創✕梯久美子トークイベント 』

黒川創×梯久美子

世界の「輪郭」と「境界」をめぐる旅

黒川創・梯久美子

『Web新小説』での連載を経て刊行された『旅する少年』。その刊行を記念して、本書の著者である黒川創さんと、昨年『サガレン』を刊行した梯久美子さんに、旅について、世界の輪郭/境界について、語り合っていただきました。

2021年11月13日 週刊読書人隣にて

少年時代の旅に嫉妬した

『旅する少年』を読んで、素直に羨ましいなと思いました。小学校六年生から中学三年生ぐらいまでの間に、一人で、すごい数の旅をしていますよね。行先も北海道の北端から沖縄まで。その少年時代の旅に、少女の頃の自分が嫉妬する、というような感情をいだきました。

あの頃は母も働いていたし、家に居場所がなかった。時代的にまだ共働きというのも少なかったし、両親の仲が良かったわけでもなかった。だから、旅に出るという時間の使い方がちょうどよかったんでしょうね。

 私は学生時代から、自分が女の子に生まれて損をしたって思っていたんです。だから、自分が男だったら、こういう旅ができたのかもしれないなとも思いました。男女差ってないようで、旅については、やっぱりありますから。『旅する少年』の中に「「世界」の輪郭を確認したかった」という名言がありますけど、世界と自分の間を埋める旅でもあったのかなと、読んで感じましたね。

旅にでるようになったきっかけは、SLが好きな友人に誘われて見に行ったこと。でもSLを追いかけることは旅の理由というより、親に対してであったり、自分への口実というかね、旅をするためのいいわけ、大義名分みたいなものだったんじゃないかな。ずっと旅をし続けていたかったというか。あとはSLを見に行くと、そこで人が働いていますよね。石炭を焚いたりして、水蒸気を動力としながら、馬の世話をするように汽車を手入れし、走らせる。そういう人間の労働の景色を見るのも面白かった。

私と黒川さんは同い年、同学年で、うちも両親が共働きでいつも家で一人でした。だから私も家に居場所はなかったんだけど、そうか、旅をするって手があったんだなと思いました。私は小学生の頃には札幌に住んでいたのですが、当時はまだ、女の子がひとりで電車に乗って旅をするというのはなかなか難しかったでしょうね。

梯久美子さん

北海道の歴史は鉄道と切り離せない

黒川さんは当時の北海道にも何度もきていますね。同時期にそこに住んでいたのに、私が全然知らなかったことがたくさん書かれていました。当時撮影したという写真もすごくいいですね。SLの写真もいいのですけど、列車だけじゃなくて、旅行者とか、暮らしている人の写真や、駅や列車の中で働いている人の写真とか、人物の写真がすごくいい。写真を撮ろうとすると、カメラにひっぱられるように、いろいろな好奇心もわきますね。

走行中の機関車の運転席なんか、いまは乗せてもらえませんよね。当時も、本当はいけないはずなんだけど、そういうこともできたんだね(笑)。北海道では、女性たちが、内地に比べて自立している印象も強く受けました。女性も一人暮らしで職業を持って働くというのが、ごく普通のことで。沖縄もそうだけど、離婚して子どもを育てながら働いている女性たちも多かった。

北海道は、他所から来た人に親切でもありますね。女性も内向的ではなくて、新しい人とか新しい事に寛容でもある。いろんな人の家に泊めてもらったりもしていますね。

人見知りだったし、自分から人に声をかけるのは得意ではなかったけど、北海道の人たちは「何やってんだ、どこいくんだ」って声をかけてくれた。駅のストーブで濡れた靴下を乾かしたり、氷下魚こまいなんかを焼いて食べたりしていても、ほうっておいてくれる。ベンチで朝まで寝ていても(笑)。そういう土地柄だから、あれだけ旅ができたんですね。

私は二年前に北海道に帰って、いまは札幌で暮らしています。これまで北海道のことをあまり知らなかったという後悔もあって、いまあらためて、北海道の歴史が気になって本を読んだりしています。北海道は明治時代に内国ないこく植民地として開発された地域で、その痕跡が多く残っている。でも、外から見て初めてわかるというか、住んでいる人は気が付かないこともありますよね。その歴史に気付けるのも、旅をしているからなのかなとも思います。

北海道を旅していた1970年代前半あたりは、いまよりも「戦後」が近かった。北海道の「開拓」もまだ百年そこそこの時代ですから。北海道では、鉄道と開拓は切っても切れない関係です。例えば、幌内線という鉄道は、空知の石炭を小樽の港に運び出すための線路でしょ。北海道の鉄道の歴史は、そこから始まる。
 その頃は「鉄っちゃん」という言葉はなかったけど、鉄道に乗っていることは、そういう北海道の開拓の歴史に触れることだった。それは教科書に載るような歴史だけじゃなくて、囚人を使って道路を開いたとか、ここには「タコ部屋があった」とか、朝鮮人や中国人の労働者を使ってこのトンネルを工事したとか、「ここに幽霊が出るのは、そうやって死んでいった労働者が埋められているからだ」とか、そういう話をあちこちで耳にしながら旅をするわけですね。

旅した当時の時間と、それを思い出して書いている「いま」という時間がありますよね。旅を回想することで、ご自身の家族の事だったり、いろいろなことが思い出されている。お父さんのことも書かれていますが、旅を通じて書かれた家族の話も印象的でした。

評論なんかは特にそうだけど、僕は裏付けのある書き方をしたいと思っている。だから、少年時代の自分の旅という漠とした記憶をノスタルジックに回想してみても、途中で筆が止まってしまうだろうと。そこでなにか手がかりをと探してみたら、家の押し入れの中から当時撮った写真のネガとかが出てきたんです。実家の老母のところにも、当時、ぼくが使った切符なんかが残っていた。これを手がかりに、当時のダイヤと照合していけば具体的な旅程が再現できるし、社会的・歴史的なバックグラウンドも含めたものが書けるんじゃないかって。

その写真や切符を見て、思い出しながら書き進めたんですね。

いろんなところに行ったのは覚えていたけど、こんなに次々と旅をしていたのかと、自分であきれました。もう還暦も近くなっているから、とてもじゃないが、こんなハードな旅程ではたまらないなと思って、気持ち悪くなりましたよ(笑)。

実際に当時の旅の後にも、肺炎になりかけたり、いつも体調を崩していますよね(笑)。巻頭に当時の切符の写真も載っていますけど、これもよく残っていましたよね。

「旅」を回想すること/描くこと

梯さんは子供の頃、熊本から北海道に引っ越したと聞いていますが、その時はどうやって移動したんですか?

引っ越しをしたのは1966年の夏で、まだ小さかったので全部は覚えていません。移動は全部鉄道だったと思います。熊本から寝台列車を乗り継いで、新大阪から東京までは新幹線にも乗った。東京からまた北上して、津軽海峡は青函連絡船に乗って渡りました。

当時は、長距離列車のホームって、大勢が顔を洗える横長の洗面台とかもあったよね。

ありましたね。私は学生の頃はそこまで鉄道が好きだったわけではなくて、鉄道旅行をすることもあまりなかった。その後、仕事をするようになってから、取材のために旅をする機会が多くなりました。一人旅も多くて、その時に改めて鉄道が好きだって自覚したんです。
 どうして鉄道に惹かれるのかなって考えてみると、その子供の時の、九州から北海道まで鉄道の旅をした記憶が大きいんだなって。寝台列車に乗ったことや、東京で生まれて初めてホテルに泊まったことも覚えています。家族全員でのお出かけみたいな感じで、余所行きの服とかも着せられたりね。その時の楽しかった記憶があったから、旅が好きになった、鉄道に惹かれたのかなと思いますね。

『旅する少年』に書いた旅をしていたのは、SLの時代が終わる最後の時期です。それ以前、夜汽車をSLが牽いていた時代は、一晩乗ると、煤で顔が真っ黒になって、目的地のホームに降りると、まずそこの洗面台で顔を洗った。そういう時代には、鉄道の電化というのは夢というか、文明開化、高度成長、利便性の象徴みたいなものにも見えていたはずですよね。

私は廃線とか無人駅に行くのが好きなんですけど、そういう場所では鉄道は歴史遺産、近代化遺産みたいになっていますね。

北海道の旅でいえば、たとえば「網走監獄」として天都山の上に保存されている煉瓦造りの正門がある獄舎は、いまとは違う場所にあった。大曲っていう網走川がぐっと曲がって流れている所にあって、あれがまだ現役の網走刑務所の獄舎だった。「網走番外地」というのは、その土地のことなんです。だから、刑務所の周りにお土産屋さんまで並んでいた。
 網走には北方少数民族のウイルタの人たちも、日本の敗戦に伴って、樺太(サハリン)から引き揚げをしています。ゲンダーヌという人の一家で、のちに彼らがジャッカ・ドフニという民族資料館を自分たちで営んだのも、この大曲という土地でした。

黒川創さん

サハリン/樺太への旅

梯さんが『サガレン』で書いているサハリンの歴史もそこにつらなるものですよね。いまだと北海道の稚内駅が日本で最北端の駅ですけど、戦前はそのさら先に稚内桟橋駅というのがあった。そこから稚泊航路という連絡船が、樺太の大泊おおどまりとのあいだをつないでいた。いまのサハリンのコルサコフですね。この連絡船は、青函連絡船と同じで、鉄道の車両もそのまま載せられる構造になっていて、大泊から先の樺太鉄道へとつないでいた。

宮沢賢治が大正12年の夏に樺太に行きますが、その年の五月に稚泊航路が開通しているんです。樺太まで鉄道で行けるようになったから、鉄道好きの賢治もさっそく乗っている。そのサハリンに3回、2017、18、19年と行って、それをまとめたのが『サガレン』です。黒川さんもサハリンに行ってるんですよね?

2000年に。だから、梯さんが行ったころとは、だいぶ様相が違っていた。

サハリンにいった時のことを下敷きにした黒川さんの小説『イカロスの森』を読んだんですけど、サハリンのオハまで行っていることに驚きました。オハという所はサハリンの北端で、鉄道も通っていないような所です。私はノグリキという、鉄道で行ける一番北の街まで行ったんですけど、そこまで行った人もあまりいない。

30代のころに『〈外地〉の日本語文学選』という本を作っていて、そこで樺太も扱っていたからサハリンに行きました。当時はサハリンに日本総領事館もなかったから、サハリン旅行を扱う旅行代理店にも、オハまで行った人はいなかったですね。行きは、稚内からコルサコフまでフェリーで行きました。いまは、もう運航されていないんですけど。帰りは、飛行機でユジノサハリンスクから函館空港まで。ソ連時代の延長で、当時はまだロシアとのあいだの旅客機にも千歳空港を使うことが許されていなかった。千歳には自衛隊基地がありますから、軍事的な警戒が理由で。

私は寝台列車でサハリンを縦断したのが自慢だったので、黒川さんがもっと北まで行っていたってことを知って、相当驚きました。

梯さんの『サガレン』を読むと、コルサコフから州都ユジノサハリンスクまで鉄道に乗っていますよね。僕が行ったときは、コルサコフの桟橋で船を降りて「ユジノサハリンスクに行きたい」って言ったら、「どうやって行くつもりだ?」って、あべこべに聞かれましたよ。線路はあるんだけど、列車が走っていなかった(笑)。バスも走ってない。交通手段は各自で調達するしかないんだと。

結局どうやって行ったんですか?

船で顔見知りになった人が声をかけてくれて、車に乗せてってもらった。ヒッチハイクするしかないかなと道路ぎわに立っていたら、拾ってくれた(笑)。

それでオハまで!(笑)。なんと!

いや、オハに行くのは、ユジノサハリンスクから飛行機です。十数人乗りの小型機ですね。ユジノサハリンスクからポロナイスクのあいだは、鉄道が走っていた。戦前の敷香しすかですね。これは、戦前の日本時代からの路線なので、日本と同じ狭軌の鉄道。でも、ユジノサハリンスクからホルムスク(戦前の真岡)をつなぐ鉄道路線は、日本時代からのトンネルなんかが崩れて、動いていなかった。あっちは、鉄道も、町も、まるごと捨ててしまう。あの路線は、そのまま廃止されたでしょう。
 ソ連崩壊からまだ10年ほどの時期でしたから、日本側でもまだ現地事情がよくわかっていなかった。のちに、総領事としてユジノサハリンスクに赴任する人が、「サハリンはどんなところでしたか」って事情聴取に来られたことがありました(笑)。

ひとはなぜ旅をするのか

ここしばらく、ユジノサハリンスクは景気が良いでしょう?

私が行った2017年は、ここなら明日からでも暮らせるって思うぐらい栄えていましたね。おしゃれなカフェもあったし、おいしいレストランや、高級スーパーもあった。10年前だと「夜はあまり出歩かないで」と言われたような場所も、いまは治安が良くなっているようでした。北海道とそんなに変わらないというか、札幌を小さくしたような感じでしたね。ノグリキも栄えていましたよ。

ぼくが乗ったときのポロナイスクまでの鉄道は、日本時代のまま使っていたから、路肩なんか谷底のほうに向かってぎりぎりのところまで崩れていて、そこを徐行しながら行くんだけど、窓から見ていると、本当にスリリングでした(笑)。

ポロナイスクはかつての国境線、北緯50度線の少し南にある町ですね。いまのポロナイスクの駅は、日本時代の駅の位置とちょっとずれている。日本時代の方の駅にも行ってみたんですが、線路上に廃車になった列車がそのまま放置されていて、広い構内がそのまま廃墟のようになっている。不思議な景色でしたね。町はそこそこ栄えていましたが、ところどころに日本時代のものが残っていて、王子製紙の工場はまだ稼働していました。そういうものって、行ってみないとわからないですよね。足を運んでみて、「これはなんだ、知らなかった」というものと出会って、帰ってきてから調べたりする。その結果、また行きたくなる。それが旅をして、それを書く力になっています。

バブル景気の頃って、「国境越え」とか「ボーダーレス」という言葉がしきりに使われていた。でも、それで本当に異文化理解が進んだかは疑わしいと思う。たしかにレヴィ=ストロースがアマゾン川流域の先住民をフィールドワークした時代とは違って、飛行機ですぐに国境は超えられる。だけど、それは、ただ経済状況に恵まれていただけとも言える。異文化理解というのは、そんなことより思索が深まらないと、進んでいかない。
 いま、日本の僕らはサハリンに自由に行ける。だけどサハリンからこっちに来るのは、普通の現地の人の年収では、およそ無理なんです。だから、国境を挟んで対称な世界があるなんていうのは幻想ですよ。お互いに、相手側の社会に対してバイアスもかかっているけど、そこにあるズレをどうやって修正していくのか。旅が全面的な理解をもたらしてくれるということはないけれども、そこでの経験を手がかりにすることで、自分のなかの常識の修正をすること、お互いの幻想をどう乗り越えるのかを考えることが重要ですね。

 こちらから見えるものと、向こうが見ているものは違うけど、ボーダーを超えたからこそ見えてくるものもある。国境線があるぐらいですから、国境付近は歴史的にも複雑です。サハリンは1991年ぐらいまでは、日本からも行けなかったし、世界中から行けなかった。北海道の宗谷岬から島は見えるのに、そういう場所がこんなに近くにあったということすら、気が付いていなかった。だからこそ、それを知って、そこに旅をすることで、何かしらの気付きを得ることができる。この気付きを得ることが、私にとって、旅のひとつの目的ですね。

(終)

最新号のコンテンツ

巻頭特別寄稿 ≪今、感じねばならぬ時≫ (2022年1月1日号)

肉の森

幼年期、番台から眺めた裸の人間。欠損した骨と肉の切断面に視たもの

特集「コロナ禍、真実が見えますか」 (2022年1月1日号)

コロナ禍、路上の「野戦病院」

貧困の現場を目撃してきた活動家が伝える、コロナ禍の切実な生の声

連載 連載詩 (2022年1月1日号)

週末のアルペジオ

昨日ではなく、明日でもない、ただこの瞬間をたくましく生きるために

三角みづ紀

連載 連載小説 (2022年1月1日号)

猛獣ども

手作り弁当から手繰られる男女。かけひきか、運命か、そして事件は?

連載 エッセイ (2022年1月1日号)

町田康の読み解き山頭火

どうしようもなさから逃れ切れない山頭火を絶句に至らしめたものは?

連載 ショートショート漫画 (2022年1月1日号)

しおり物語

いちごジャム8個? 一枚の買い物メモに妄想膨らむほっこりなお正月

連載 動画 (2022年1月1日号)

待ってました! 黙阿弥歌舞伎への招待

悪党二人が仕掛ける江戸城御金蔵破りの実録物・電脳紙芝居「四千両」

春陽堂書店Web新小説編集部

連載 エッセイ (2022年1月1日号)

兼好のつれづれ絵草紙

お目出たくてワクワクする初席。お約束の、師匠元日の一言で笑い初め

三遊亭兼好

連載 ウェブ絵巻 (2022年1月1日号)

漱石クロニクル ―絵で読む夏目漱石の生涯―

是公の勧めで満州に渡った漱石。旧友たちが次々と訪れ満韓を巡遊する

連載 俳句鑑賞 (2022年1月1日号)

楸邨山脈の巨人たち

虚子に傾倒した川崎展宏の第一回。「寒雷」では異端だった視点を鑑賞

連載 医学ミステリー (2022年1月1日号)

Dr.よねやまの芸脳生活 芸術家の生き様を医学で考える

生来の能力の高さから若くして活躍。やがて目的を見失った芥川龍之介

連載 紀行エッセイ (2022年1月1日号)

銭湯放浪記

最終回は佃島の銭湯。震災と空襲を逃れ、江戸情緒と心意気を今に残す

連載 動画 (2022年1月1日号)

Dr.よねやまの芸脳生活

気遣い手紙で仕事がうまくいく~Dr.米山の必見レクチャー第19弾

連載 動画 (2022年1月1日号)

町田康のパンク山頭火ラヂオ

徒然なるままに山頭火を語る町田版自由律YouTube。注目の第4回配信

登録初月は無料

Web新小説会員登録はこちら