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『 スーパーフィッシュと老ダイバー 』

岡本行夫

スーパーフィッシュと老ダイバー

岡本行夫

第2章 初めての鏡−自我

ラスモハメッド岬は、シャルム・エル・シェイクの町から南に15キロ、シナイ半島の最南端にある。岬の高さは地上53メートル。その絶壁は、海に没してからも垂直に落ちつづけ、深さ200メートルのところでいったん岩棚に達したあと、さらにまっすぐ600メートルの海底にむかう。

ナポレオンフィッシュのジョージは、この岬のすぐ近くで生まれた。

ジョージは、小さな子供のときから、ひとりだった。

自分が成長すれば巨大な青緑色の魚になることなど、わからない。ほかの魚に食われないように、いつもオドオドと、かくれていた。

かれは、自分の姿を見たことがない。首をまげられないから、ふりむいて見ることもできない。だから、おなじナポレオンフィッシュに会っても、自分の仲間だということがわからない。物体の形をもたない「意識」だけが海のなかを泳いでいた。

何年かまえ、ラスモハメッド岬のそばにあるティラン海峡の暗礁にぶつかって沈んだ船がある。そこはジョージの遊び場になった。

ある日、その船室の壁に体をこすりつけていたら、ついていた藻がとれて、むこうがわに巨大な魚がでてきた。

その魚は、ジョージが右にいけば右に、左にいけば左に動いた。近づけば、むこうも近づいてくる。ジョージは食われるのではないかと逃げだした。

かれは、それが鏡であることも、自分の姿も、知らないから、なにが起こっているのかわからない。ただ、自分とおなじ動きをする大きな青い魚がいたことが、ふしぎだった。

それが自分であることを知ったのは、その鏡をなんどか見にいったあとだ。あれが自分なのか? あんなに大きくて威圧的なのか。

それからジョージは変わった。自分の姿を知ったことで、意識に肉体がついた。感情がめばえ、いろいろな価値に順序がついて、美しいことと、美しくないことの、両方がわかってきた。自分の位置も知るようになった。

それまで「自分」と「相手」を比べて考えることはなかったが、自分という存在ができて、相手という存在が生まれた。そして、相手があることによって生じる感謝や喜び、怖れや不満といった感情がでてきた。

ジョージは、友だちがほしいという、わきたつ気持ちにとらわれた。

さっそく、おなじ姿をした魚のところにいった。
「おい、キミとぼくは、おんなじなんだよ、兄弟なんだよ!」

相手はびっくりした。
「えっ? ぼくも眼がギョロギョロしていて、頭の上にはキミみたいに、ぶかっこうなコブがあるのかい?」
「そうさ、ぼくらは仲間なんだよ。だから、一緒にいようよ」
「おなじだからって、どうして一緒にいなきゃいけないんだい?

ぼくが見つける食べものは、ぼくのものさ。さあ、あっちへいってくれ」

つぎのナポレオンフィッシュにも、ことわられた。
「みんなで集まっていたら楽しいじゃないか!」
「楽しいって、どういう意味だ? オレはだれの助けもいらないぞ」

どれだけ話しても、仲間はできなかった。

*****

そのころ、ラスモハメッド岬の水深15メートルのところにある大きな窪みに、ひとりの老ダイバーが、じっと腰かけていた。名前はハンスといった。

ハンスは、高価なダイビングスーツは買わず、自動車修理工が着るツナギの作業服を着ていた。紅海の28度の水温には、それでじゅうぶんだった。

かれは、子供のときから宇宙や天体が大好きで、星のことは、なんでも知っていた。

しかし自分を表現するのは苦手で、学校では変わりものと思われていた。友だちもいなかった。どうせ、自分の考えを言っても誤解されるからめんどうだ、星を相手にするほうがいいや、と思っていた。

大学を出てから、天文学者をめざしたが、挫折した。そもそも宇宙がどうしてできたか、いくら研究しても、わからなかったのだ。

星は、宇宙の大爆発が、巨大な質量とエネルギーを放出して生まれた。

重力波の測定によって、最近ようやくそれが証明されたのだが、それまで万物の起源は、大きな謎であった。理論的にそれを予測したアインシュタインですら、当初は量子力学的な考えを否定していた。

ましてや、ハンスには無理な課題だった。かれはあきらめて、もうすこし手近な物理学に転向し、高校で代用教師として物理を教えていた。

ある冬の日、ハンスは高校で教えた帰りに、手袋を買おうと洋服屋にたちよった。そして、クララに会った。クララは、十二才のときに母が死んでひとりになり、親戚の家にあずけられた。だが、その家では邪魔ものあつかいされ、食事もそこの家族とはべつの場所でとらされた。つらい境遇だったが、母に教えられた明るさは、なくさなかった。

学校の成績はよかったが、学費を出してもらえなかったので高校にはいけず、その家を出て、町の洋服屋を手伝っていた。ふたりが出会ったのは、ハンスが四十四才、クララが二十八才のときだった。

クララは、華やかなバラというより、野に咲く、かれんな花のようだった。偏屈オヤジとよばれていたハンスだが、初めてクララに会ったとき、野原をわたるここちよい風が自分を吹きぬけていった気がした。しかし、そのときは、その風がなんであるか、気がつかなかった。

店を出ると冷たい風が吹いていた。買った手袋は、ハンスの体ぜんたいを、あたたかく包んでくれた。冬の寒い日に手がかじかむと、いつも母が手をにぎって温めてくれた遠い昔のことが、なぜか思いだされた。

知らず知らずのうちに、ハンスはその店の前を通ることが多くなった。

なん週間かたって、ショーウィンドウをのぞきこんでいたハンスと、店のなかにいたクララの目が合った。

クララのほほえみが、まっすぐ、ハンスに入ってきた。

野原の優しい風にさそわれて、ハンスは店に入った。

「なぜ、あなたは、いつもしあわせそうにしているの?」

ハンスは、おもわず出た自分の声に、自分でおどろいた。ぶっきらぼうな会話しかできない自分が、こんなに他人にやさしくしゃべるなんて。

「簡単なことなの。母は、毎日ひとつでいいから感謝して暮らしなさいと、教えてくれたの。だから、わたしは、きれいなお花を見たり、小さな子供がおはよう! と言ってくれたりするたびに、感謝するのよ。

感謝することは、毎日たくさんあるわ。そうすると、しあわせになれるの」

感謝? 自分は他人に感謝をしてきただろうか。そう考えてだまりこんだハンスを、クララはおもしろそうに見ていた。

ハンスは、野原の花畑を吹いてくる風がなんであるか、わかりかけていた。

(次回へ続く)

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