Dr.よねやまの芸脳生活 芸術家の生き様を医学で考える
米山公啓
Dr.よねやまの芸脳生活
芸術家の生き様を医学で考える
米山公啓
第二十一回 芥川龍之介と自殺 ③
うつろな未来
龍之介が長崎丸山遊廓「たつみ」の芸妓照菊に書き与えた「水虎晩帰之図」。我鬼は龍之介の俳号
画/米山公啓
大正9年(1920年)4月(戸籍上は3月)、龍之介28歳のときに長男、比呂志が誕生する。7月には「杜子春」を雑誌、『赤い鳥』に発表している。
このころからやたらに河童の絵を描き始めている。幻覚だったのだろうか、あるいは精神疾患の始まりだったかもしれない。
同時期に、地方へ出向き講演をするようになる。中堅作家として知名度があり、人が集まるからだろう。
講演会は作家にとって簡単に金が稼げるいい仕事だ。いまでも売れている作家には講演依頼が多い。私もピーク時は毎週のように、全国各地で講演をしていた。
ただし、ある編集者からは、「講演ばかりやっていると作品の質が落ちますよ」と注意された。この言葉が印象に残っている。作家はあくまで作品で食っていけ、という意味だった。
芥川のように若くして売れっ子になると、講演をはじめ、作家以外の仕事もいろいろ来ただろう。
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