2022年7月8日臨時増刊号 【特集】没後100年 森鷗外の直筆が出てきた! 解説・山崎一穎
春陽堂書店Web新小説編集部
7月8日臨時増刊「鷗外特集」
森鷗外直筆の宣伝広告文 発見
「渋江抽斎」「伊澤蘭軒」など史伝をPR
文豪・森鷗外の傑作と言われる晩年の史伝「渋江抽斎」「伊澤蘭軒」「北條霞亭」について、鷗外自らがその概略を記した宣伝広告文の直筆原稿が、鷗外の作品を多く出版してきた春陽堂書店の倉庫から見つかった。春陽堂(春陽堂書店の前身)から刊行される予定だった創作集の広告のために書いた文章で、これらの史伝の叙述について、鷗外の強い自負がうかがえる。
今年6月、春陽堂書店は、この和紙に墨と細筆で書かれた広告文を、鷗外研究の第一人者で跡見学園女子大学名誉教授の山崎一穎氏に見せ、「直筆に間違いない」との鑑定結果を得た。
7月9日の鷗外没後100年の命日を前に、鷗外直筆の宣伝広告文の写真を本特集に特別公開し、併せて山崎氏に、原文の翻刻、現代語訳、それにこの直筆原稿の来歴や意義を伝える解説を寄稿してもらった。
(春陽堂書店「Web新小説」編集部)
「伊澤蘭軒」伝等森鷗外自筆広告文の解読
跡見学園女子大学名誉教授
山崎一頴
(和紙、墨、19×59㌢)
▵伝
◦渋江抽斎▵(道純)
附森 枳園(立之)
◦伊澤蘭軒▵
附小島宝素▵(春庵)
◦北條霞亭▵
※(原資料の旧漢字の多くは、新字体に改めた。以下同様。振り仮名は山崎が付す)
(和紙、墨、19×14・3㌢)
《注記》
※渋江抽斎(一八〇五―一八五八)
江戸後期の弘前藩(現青森県)の医者、漢学者、考証学者。名は全善、字は道純、号は抽斎。医学を伊澤蘭軒に学び、漢学を狩谷棭斎、市野迷庵に学ぶ。
※伊澤蘭軒(一七七七―一八二九)
江戸後期の福山藩(現広島県)の医者、漢学者。名は信恬、字は澹父(憺甫とも)、通称辞安、号は蘭軒。狩谷棭斎と親交がある。
※北條霞亭(一七八〇―一八二三)
江戸後期の漢学者、漢詩人。志摩国(現三重県)的矢の人。名は譲、字は子譲、通称譲四郎、号は霞亭。
※森枳園(一八〇七―一八八五)
江戸後期の福山藩の医者、本草学者、書誌学者。名は立之、字は立夫、通称養真、のち養竹、号は枳園。医を伊澤蘭軒に、本草学を佐藤中陵に学ぶ。
※小島宝素(一七九七―一八四八)
江戸後期の幕府の医者。名は尚質、字は学古、通称春庵、号は宝素。蘭医前野良沢の外孫。
森林太郎著
伊澤蘭軒伝 一巻
附小島宝素伝
渋江抽斎伝 一巻
北條霞亭伝 一巻
右森氏ガ文化文政ヨリ天保ニ亙ル間ノ吾邦考証学派ノ事蹟ヲ研究セムト欲シテ先ヅ第一歩ヲ著ケタルモノニシテ蘭軒ノ酌源堂ガ当時奇書ノ宝庫タリシハ学者ノ皆認ムル所ナリ 宝素モ亦蔵書家トシテ相譲ラズ 抽斎ハ蘭軒ノ門ニ出デテ森枳園ト共ニ経籍訪古志ヲ著シタルガ故ニ其伝中ニ自ラ枳園ノ事蹟ヲ包含ス 独リ霞亭ハ前者ノ圏外ニ出ヅト雖モ菅茶山ノ壻、頼山陽ノ後継者トシテ蘭軒トノ関係上之ヲ研究ノ範囲内ニ置キタルモノナリ 三書皆当時ノ尺牘等ニ拠リテ筆ヲ行リ一ノ浮泛ノ字句ナキハ著者ノ敢テ自ラ保証スル所ナリ
※(翻刻にあたって、句点にあたる所は一字あけている。振り仮名は山崎が付す)
右の三冊(「伊澤蘭軒」伝 附「小島宝素」伝/「渋江抽斎」伝/「北條霞亭」伝)の伝記は、森鷗外氏が文化文政時代から天保時代(一八〇四―一八四四年)にかけて活躍した我が国の考証学者の為事を研究しようと思い立って、最初に着手した三人の伝記である。
伊澤蘭軒の居宅・酌源堂には、蘭軒が収集した稀覯本(入手しがたい貴重本)が多数あることは多くの学者が認める所である。小島宝素もまた蔵書家として知られ、蘭軒と肩を並べている。渋江抽斎は蘭軒の門下生であり、森枳園とともに「経籍訪古志」を編纂し出版している。それ故に「渋江抽斎」伝の中で森枳園の為事も記述する。
三人の中でただ一人北條霞亭は、江戸を活動の拠点とする蘭軒らと違って活動の範囲を別にしている。とは言っても、備後(現広島県)福山藩の儒学者、医者であり神辺で私塾(廉塾)を開設している菅茶山の女婿である。茶山は頼春水、山陽の父子と親交があり、山陽が廉塾の塾頭を務め、のちに霞亭が後を継いだ。蘭軒も茶山も福山藩の儒者で医者であった関係上、霞亭の学問業績も研究の対象に置いて、その伝記を叙述する。
三人の伝記は当時の書簡の解読によって、その交流・学問に言及したもので、一字一句忽せにしていないことは、著者である私が自信を以て保証するものである。
《注記》
考証学 実証的科学的な古典研究で、中国の漢、唐代の訓詁学を受けついでいる。狩谷棭斎、市野迷庵、伊澤蘭軒、渋江抽斎、小島宝素、北條霞亭らが正統の考証学者である。
「経籍訪古志」八巻 安政三年(一八五六)稿成る。中国より我が国に伝わる経書の古字本、古版本を列挙し、その所蔵者、伝来、体裁などの書誌を明らかにした本。
この資料の存在については、鷗外の末弟・潤三郎がその著書『鷗外森林太郎』(昭和十七年四月十日、丸井書店〈改訂版〉、同年七月三十日、森北書店〈再版〉)の「十五、考証学者伝記の研究」の章で次の様に記している。
抽斎伝の書き出されてから間も無い一月二十日(山崎注記・大正五年)の日記に「和田利彦来て渋江抽斎を発行せんことを請ふ」とあるが、話はその侭で一応止つたものと思はれる。和田氏は春陽堂の主人で、同氏の所蔵に兄が巻紙に認めた左の広告原稿がある。
(二五二頁、傍線山崎)
潤三郎の記述は戦前である。その後この原稿が公表されたことはない。鷗外没後百年の今年、発見された奇遇を喜びたい。
この資料は春陽堂の封筒に入っており、表書きに「森鷗外書翰/㊞大切の品也」とペンで書かれている。㊞は「利彦」とある。春陽堂の第四代社長、和田利彦氏である。
鷗外直筆の宣伝広告文が入っていた封筒
資料は鷗外晩年の漢学者にして医者であり愛書家である学者の伝記の出版にあたって、その候補作を記した別紙と、鷗外自ら自作の広告文を書いたものである。鷗外は『即興詩人』、『うた日記』、創作集『意地』の広告文なども執筆している。
近年鷗外の自筆原稿が発見されることは稀である。しかも自筆広告文など見つかってはいない。鷗外が最晩年に書いた現在、唯一の自筆広告文の出現の価値は高い。
『新小説』臨時増刊号「文豪鷗外森林太郎」とその広告ページ(個人蔵)
鷗外は大正十一年(一九二二年)七月九日に死去した。鷗外没後、当時の雑誌は追悼号を編んだ。春陽堂も『新小説』の臨時増刊号として「文豪鷗外森林太郎」第二十七年第九巻(大正十一年八月一日、春陽堂)を発行した。その雑誌に掲載された鷗外自筆の広告文である。今日、第三次岩波書店版『鷗外全集』第三十八巻(昭和五十年六月)に「伊澤蘭軒伝等広告文」としてこの資料が全文翻刻され掲載されている。ただし、この度の別紙は、初出の折も掲載されていない。鷗外が学者の伝記として候補に挙げた正系の史伝である。
執筆時期は不明であるが、鷗外の日記「委蛇録」の大正十年二月十一日の条に、春陽堂主と鷗外の訳文集の刊行が決まったとある。そして『森林太郎訳文集巻一 独逸新劇篇』が刊行されたのが大正十年十月十八日である。その頃に訳文集の次は伝記の刊行と話がまとまり、この広告文が書かれたのではないかと推測する。
伝記の出版状況を見ると、実際は『森林太郎創作集巻一 伊澤蘭軒伝』(大正十二年八月十三日、春陽堂、和田利彦、定価四円)のみ刊行された。ただし。広告文にある「附小島宝素伝」は、収載されなかった。刊行が一冊で終わったのは九月一日の関東大震災によって印刷所が壊滅的打撃を受けた余波ではなかったのか。
『鷗外森林太郎創作集巻一 伊澤蘭軒伝』(春陽堂刊、個人蔵)
大正十一年七月九日に鷗外が亡くなってまもなく、春陽堂・国民図書出版株式会社・新潮社の三社が共同し、「鷗外全集刊行会」として全十八巻(菊版・洋装クロス装・函入)の全集を刊行した。この全集の第十六巻(翻訳)などの組版が焼失し、原稿も焼失したことを考えれば、春陽堂の『森林太郎創作集』の巻二、三が未刊であった状況が推察できる。
この広告文の読み所は、鷗外が出版社の編集者に成りかわって、三人称で「右森氏が」云々と書き出しながら、最後の「一ノ浮泛ノ字句ナキハ」に至って、伝記に対する自負から思いが高ぶり、遂に「著者ノ敢テ自ら保証スル所ナリ」と素顔を出してしまった所にある。三人称(彼)から一人称(私)への転換への妙味こそ興味深い広告文である。
鷗外の伝記は司馬遷の『史記』に倣って、編年体と紀伝体との交叉からなる。鷗外の伝記は近世文人の交流史であり、文化史の一面を持っているとも言える。蘭軒、抽斎、霞亭没後が記述され、一族の消長の歴史が展望される。幕末から明治・大正まで展望する時、父の時代のように至福に生き得ない子らの苦難の生の軌跡が浮き彫りになる。維新後の生活史の記録にもなっている。
(やまざき・かずひで)
※編集部注
和田利彦(一八八五―一九六七)広島県生まれ。早大卒。一九一四年(大正三年)、春陽堂の第四代社長に就任。四〇年(昭和十五年)までの在任中に、森鷗外、夏目漱石、泉鏡花、永井荷風、芥川龍之介ら多くの作家の作品を出版。昭和初期には円本ブームを牽引する『明治大正文学全集』を刊行した。