漱石クロニクル ―絵で読む夏目漱石の生涯―
大高郁子
漱石クロニクル
―絵で読む夏目漱石の生涯―
大高郁子
第十五回 絵を観る、絵を描く―芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである
明治四十五年/大正元年(一九一二年)四十五歳
一月一日、東京朝日新聞に『彼岸過迄』の序として、「彼岸過迄に就て」が掲載される。
「彼岸過迄に就て」より
《自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しば〳〵耳にするネオ浪漫派の作家では猶更ない。(中略)たゞ自分は自分であるといふ信念を持つてゐる。(中略)たゞ自分らしいものが書きたい丈である。手腕が足りなくて自分以下のものが出来たり、衒気があつて自分以上を装ふ様なものが出来たりして、読者に済まない結果を齎すのを恐れる丈である。
東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万といふ多数に上つてゐる。(中略)其の何人かの大部分は恐らく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈だらうと思ふ。自分は是等の教育ある且尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じてゐる。》
一月二日より、「東京朝日新聞」と「大阪朝日新聞」に『彼岸過迄』の連載が始まる。(四月二十九日まで)
一月二十一日、池辺三山の母、世喜子が死去(六十八歳)する。
二月二十八日、池辺三山が心臓病で死去する。四十九歳。母、世喜子の三十五日忌の三日後だった。
三月一日、漱石は「東京朝日新聞」に「三山居士」を書く。
「三山居士」より
《余が最後に池辺君を見たのは、その母堂の葬儀の日であつた。(中略)其時池辺君が帽を被らずに、草履の儘質素な服装をして柩の後に続いた姿を今見る様に覚えてゐる。余は生きた池辺君の最後の記念として其姿を永久に深く頭の奥に仕舞つて置かなければならなくなつたかと思ふと、其時言葉を交はさなかつたのが、甚だ名残惜しくてならない。》
三月二日、ひな子の誕生日に『彼岸過迄』の「雨の降る日」を書き始める。
三月七日、ひな子の百か日に「雨の降る日」を脱稿する。ひな子の供養になったと喜ぶ。
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