特集とりとめな記
特集編集班
特集とりとめな記
海遥
コロナ禍が始まって以降、私たちは、否応なく新しい日常生活を送ることを迫られてきた。昨年来のオミクロン株の加速度的な感染拡大で、日々の暮らしは、自粛一辺倒の昨日までとは違ってくる。そろそろ、感染の連鎖から解き放たれて、新たな春を迎えたい――「新・日常考」という言葉には、そんな淡い期待も込めていた。
ところが、編集を進める過程で、世界は新たな試練に直面することになった。ロシアのウクライナ侵攻で日々送られてくる映像は、「戦後」七十有余年となる日本人の意識をも、揺さぶらずにはおかない。対立はあっても一線は越えなかった世界の秩序が、簡単に崩れ去っていく現実を、まざまざと見せつけられている。
「『第三次世界大戦が始まり、世界が変わってしまうのではないか』。こんなふうに考えたことなんて、七十四年生きてきて、かつてなかったね」。今回、エッセイを寄せた歌人の小池光さんは、そう語ってくれた。「核爆弾を持っていても使えるはずがない」と高をくくっていた意識が、吹き飛んでしまったというのである。
小池さんの脳裏をかすめるのは、スぺイン風邪と呼ばれた新型インフルエンザが、猛威を振るった歴史である。そのとき世界は、第一次大戦というかつてない大戦争の最中にあった。 それが、コロナ禍とウクライナ侵攻が重なった今の現実と二重写しになるという。この先にくるのは、新たな大戦争ではないのか――。願わくは、歌人の鋭敏過ぎる感性が呼び寄せた杞憂に終わってほしい。
予想もできない事態に直面したとき、人はどうふるまい、どう前を向いて生きていくのか。大正・昭和の大歌人、斎藤茂吉の危機と再生の歌に触れた小池さんのエッセイは、その生きざまを、細やかに読み解いている。遠い過去の経験も、今を生きる糧となる。歌は危機の救いとなる。そこには、そんな思いが込められているようだ。
眠以子
はじめは何の鳴き声かわからなかった。
夜の八時から九時頃にかけて、それはあたりに響き渡った。とっさにベランダからマンションの裏手にある公園をのぞきこむ。
ひっそりと黝く沈む夜の広場に、うごめくものがある。いち、に、さん、し……。大小の獣たちが、私が耳にした「キエーッ」という甲高い声をあげながら転がるようにじゃれていた。
どうやら、アライグマ一家の運動会だったらしい。彼らは、世界がパンデミックに突入した春から出没するようになった。
出歩かなくなり、本を手に微睡むのが常となった。夜がこんなにも長く、深いものであることに気づかされたのは子どもの時以来ではないか。
外へ出る仕事も用事も一時休止となり、ごみ出しのカレンダーを確認して懸命に曜日を把握するのが精いっぱい。そんな凹凸のない毎日に、非常事態であるはずの「非日常」がいつしか「日常」に取って代わってしまっていた。
人工的な音やネオンが消え、まるで世界そのものが静かに呼吸しているようだ。
空気は澄み、めぐる季節に次々と咲く花の香は濃く、繁る葉の瑞々しさは滴るようで、月の冴え、陽の光の粒子も前よりも際立っているように感じられた。
皮肉なことに、パンデミックで世界が解像度をあげた、そう思った。
あれから二年が過ぎ、人々はどこかに見えない蓋を感じながらも少しずつ動きだしているが、新たな憂いが世界を覆い、日々、様々な思いが交錯する。
今日は今日であるだけできのうとは明らかに違うのだが、当たり前にあると思い込んでいた「日常」が足元から揺さぶられ、崩され、私たちは戸惑っている。
目に見えないのはウイルスだけではなく、人々の心の底に降り積もった何かが少しずつ膨らんで、いまにも破裂しそうな気配が迫る。あるいは、悪意とも善意とも判然としない透明な液体が溜まってゆき、器から零れそうになる。そんな決壊寸前のような毎日が、私たちの新しい日常になってしまった。
酒井順子さんは、経済中心に塗り替えられた「ニューノーマル」と呼ばれる世界において、様々な場面で感じる「アンプラグド」な自身の違和感をやわらかな言葉でそっと差し出す。
堀江敏幸さんは、大震災が私たちに突き付けた未回収の「問い」をあらためて提示し、二重写しになった不安な日々のなかで「平時の内実」を見つめ直すことの必然を伝える。それは、かつての災厄の記憶を手繰り寄せた小池光さんとどこか通じるものがある。
また季節がめぐり、ややぎごちない鶯の初鳴きを聞いた夜、一年ぶりに彼らの声を耳にした。去年と同じ家族かどうかはわからない。
私はこの春の宵も家で過ごしていて、微かに届くサイレンや風向きによって聞こえる電車の走行音のほかは、ただひたすらにしんしんと深まっていく夜の闇に沈潜しながら、小さな獣が春の到来を寿ぐ叫びを受け止める。
繋がりたいと願う私たちと、孤でありたいと望む私たち。そのあわいで起こる漣が、あらたな日常を形づくってゆく。