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『 スーパーフィッシュと老ダイバー 』

岡本行夫

スーパーフィッシュと老ダイバー

岡本行夫

第3章 老ダイバーの涙―追憶

ある日、ジョージは、ラスモハメッド岬の南方のシャーク・リーフにいた。このリーフは、200メートルの海底からそそりたち、南から流れてきた潮がぶつかり、多くの魚の群れがあつまる場所だ。

この舞台の雄大さといったら! 海面のちかくにはバラフエダイ、深いところにロウニンアジ、もっと深いところにはバラクーダが、それぞれ大きな群れをつくって、旋回しながら泳いでいる。それぞれが、何百ぴきという群れだ。ツバメウオは、潮に流されやすい体型だから、群れは壁にそって泳いでいる。

海中の切りたった崖には、ソフトコーラルと呼ばれる色とりどりの珊瑚がしげり、大きなウチワサンゴが、小さな魚たちのかくれ場所になっている。

そのシャーク・リーフの水深20メートルのところで、二人の若いダイバーが、水中銃で狩りをしていた。高圧で発射されたもりは、大きなツバメウオの体を貫通し、魚は、激しく体をふるわせて、苦しんでいた。

その様子を見たジョージのなかに、初めて「怒り」の感情が燃えあがった。気がついたときには、銛を撃ちこんだダイバーにむかって、突進していた。

2メートル近くに成長した巨体が、若者が空気を吸っていたレギュレーターをはね飛ばし、はずれた管からは、猛烈な勢いで空気が噴出して、泡のカーテンが海中にたちのぼった。

ジョージの行為は、かれの知らないところで、悲劇をおこしていた。若者はパニックにおちいり、急スピードで浮上してしまったのだ。

それによって、空気のなかの窒素が、水圧の急激な変化とともに血液中で気化してしまい、若者の関節を一生痛めつけることになったのである。

しかし人間たちは、自分たちの殺戮行為を、止めようとはしなかった。逆に、ジョージのことを、人を襲う危険な魚として、狙うようになった。

*****

ジョージがシャーク・リーフでダイバーに体当たりしたとき、老ダイバーのハンスは、そこから200メートル離れたラスモハメッド岬の海中絶壁の、いつもの窪みにいた。そしてクララのことを考えていた。

初めて一緒にでかけたのは、雨が降っている寒い日だった。

ハンスは聞いた。
「こんな雨の日でも、感謝しているの?」
「ええ、そうよ。この水玉の傘、かわいいでしょ? わたしのお気にいりなの。雨が降ると、この傘は喜ぶの。わたしも、それを感じてうれしいの。だから雨にも感謝してるのよ」
「ふうーん。それにしても、きょうは、いつもよりしあわせそうだね。なにか、いいことがあったの?」

クララは恥ずかしそうに、うつむいた。
「今までで、いちばん大きな感謝をしているの。あなたに会えたことを」

ハンスは感動して、この女性とずっと一緒にいたいと思った。だが、十五才も離れた自分を受けいれてくれるだろうかと、心配だった。

ハンスがそれを言うと、クララは、まっすぐ見つめてきた。
「その人と一緒にいたいと思うかどうかが、いちばん大事だわ。年令はあとから知ることだし、いくつだろうと、関係ないわ」

ハンスは、どうしても結婚したいと思った。

よく年、小さな結婚式をあげた。ふたりとも身寄りがいなかったので、式に出席したのは、クララが妹のようにかわいがっていたエレンという幼なじみだけだった。洋服屋ではたらいていたクララは、もちろん、自分で縫ったドレスを着た。

結婚してからのクララは、ハンスのすることすべてに、「すごいね、すごいね」と、笑顔をむけた。ハンスのすべてを受けいれ、社会とのかけ橋にもなって、ハンスがまわりの人々とふつうの人間づきあいができるようにした。

「人をうらやんだり、ねたんだりしてはダメなのよ。幸福って、ひとつしか残ってないものを、もうこれしかないと思うのか、まだこれだけあると思うのかで、ちがってくるのよ」

三年たって娘が生まれた。天文学者になりたかったハンスは、夜空にかがやく星座の「こと座(Lyra)」を、そのまま娘の名前にした。ライラは、母の優しさをうけつぎ、すべての人間に愛情をむける子供にそだった。

おだやかで、平和な日々だった。しかし十才になったライラを、苛酷な悲劇がおそった。ハンスを道のむこうから見つけて、喜びにつつまれて走ってきたライラを、自動車がはねたのだ。すべてがかれの目の前で起こった。短いライラの生涯がおわった。

ハンスは毎日泣いた。なぜ神は、地上でもっとも美しい花を、不条理にも摘みとって、天にもっていってしまったのか。自分の命をさしだすから娘を戻してほしいと、かれは神に頼んだ。そして、聞きとどけなかった神をうらんだ。

悲しみは薄れなかったが、クララに支えられて生きてきた。

しかし、こんどはクララが、その三年後に、ハンスを残して、病気で死んだのだ。

愛するものをすべて失ったハンスは、教えていた高校を辞め、わずかな貯えをもって、家族でなんどか夏休みをすごしたシャルム・エル・シェイクの町に来た。二年まえのことだ。

シャルムには、多くの思い出がつまっていた。鮮烈な太陽の下で、ライラは、はじけるようにはしゃぎ、クララは、世界でいちばんしあわせな笑顔をハンスにむけていた。

かれがラスモハメッドで海に潜っているあいだ、母と娘は、町の質素なホテルで、しかし、しあわせにみたされて、かれの帰りを待った。

*****

老ダイバーのハンスは、まるで自分も海の生きものであるかのように、海中にとけこみ、音もたてずに呼吸し、過去を思いだしていた。涙が出た。しずかな涙だった。

目の前を、さまざまな魚たちが通過していった。

ジョージがダイバーにぶつかっていったのは、ハンスが無限につづく海中のひろがりを見ていたときだった。

遠くから、大きなナポレオンフィッシュが、逃げるように、ハンスのほうに泳いでくるのが見えた。いつもいるヤツだ。しかし、様子が変だ。気が動転してるみたいだ。サメにやられたのか? 人間に追いかけられているようにも見える。なにが起こったんだろう?

それにしても、あいつは、いつもひとりでいる。オレとおなじように、こころに傷を負っているのだろうか?

(次回へ続く)

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