『 寺子屋山頭火 』
町田康
寺子屋山頭火
町田康
第七回 奇蹟は銭にならぬ
ということで自分自身を句の境地と一体化させ、自らを高めることによって句が高まる、句が高まることによって自分自身が高まる、と考える山頭火はセメント試験場で働くなどした。
しかしセメント試験場で働くことが必ずしも自分を高めることにならないのは前に見たとおりである。
山頭火はそこをやめた。しかしながら都会というところは、ただ息をしているだけでカネのかかるところで、しかも身より頼りがほとんどないとなると、銭稼ぎをしないということ乃ち死ぬるということ、なにをしても金を稼がなければならない。
おそらく山頭火の理想は、物書きとして一戸を構える、ということだっただろうが、それをするためにもこのような苦が必要だ、と山頭火は考えたのであった。
しかしその苦しみと目指す高み、生活と芸術があまりにもかけ離れていた。
銭を稼ぐために心身をすり減らし、そのため句作ができぬということはできぬ。発想の入り口と出口、原因と結果を取り違えた結果がここに現れていた。
ならば。銭を稼ぐために使っていた労力を多少減じ、句作の方にその力を回したい、と思うのが人情で、山頭火もそのようにした。
では銭を稼ぐための労力を減らすためにはどうしたらよいか。
まあ、ひとつの方法としては行財政改革というか、緊縮財政というか、遣う銭を減らす、という
ここから先をお読みいただくには
会員登録が必要です。