1923 百年前、文芸に何があったか 芥川、荷風──関東大震災を生きた言葉
宮川匡司
1923 百年前、文芸に何があったか
芥川、荷風――関東大震災を生きた言葉
宮川匡司
今年は、関東大震災から百年の節目となる。この震災が発生した1923年(大正12年)、文学の世界は、大きな変化のただ中にあった。百年前、文学はどこへ向かおうとしたのか。芥川龍之介、菊池寛、永井荷風という3人の作家の言葉をたどりながら、新しい活字メディアとともに高揚する文学の潮流をたどってみよう。
芥川龍之介、原稿依頼が殺到
「拝啓 御すすめ難有く存候いろいろ時間の工めん致し候へ共四月はむづかしく五月にては如何に候や そうじて雑誌を書くには新聞を休まねばならず休めば薄田の田守やかましくでん報を打ち候間この頃は小生も進退谷まり居り候(後略)」
これは、1923年(大正12年)2月27日、芥川龍之介(1892〜1927)が、与謝野鉄幹(寛)に宛てて出した書簡の言葉である。(原文にルビを追加。以下引用文は同様)
与謝野鉄幹は、文芸誌『明星』(第2次)を主宰していて、その4月号への原稿依頼に対する芥川の返信だろう。4月は厳しく、一か月後にしてもらえないか、と打診している。
芥川は、1919年(大正8年)3月、旧知の詩人で大阪毎日新聞社学芸部長をしていた薄田淳介(泣菫)のつてで、大阪毎日新聞社に社員として入社。出勤の義務はないものの、年に何回か小説を書くという条件で就職していた。この書簡にある「薄田の田守」とは、薄田学芸部長のことで、新聞の原稿を休むと、やかましく催促の電報がくるという窮状を、第1次『明星』時代以来、薄田泣菫のことをよく知る与謝野鉄幹に、ユーモアを交えて訴えている。
芥川はこの年31歳になる。1916年(大正5年)2月、東京帝大在学中、同人誌の第4次『新思潮』創刊号に発表した短編小説「鼻」が夏目漱石に激賞されてから7年が経っていた。「鼻」に続き、文壇デビュー作となる短編「芋粥」を文芸誌『新小説』(春陽堂)に発表、またたく間に人気作家となり、文芸誌や総合誌の新年号には毎年必ず芥川の短編が載った。1922年(大正11年)の1月号には『新潮』に「藪の中」、『改造』に「将軍」、『新小説』に「神神の微笑」、『中央公論』に「俊寛」を、それぞれ発表する売れっ子ぶりだった。
ところが、この大正12年、それが途絶えた。
神経衰弱に不眠症、胃痙攣と満身創痍
「小生も頭は悪し、心臓は縮まるし 胃腸も変になるしどうにもかうにもやり切れない故新年号の原稿全部断り、湯治に参る事と決心仕りました」
前年11月20日に書いた親友の画家、小穴隆一宛ての書簡に、芥川はその理由を打ち明けている。実際、30歳にして芥川の健康は損なわれていた。神経衰弱が昂じてしばしば不眠症となり、睡眠薬を飲むようになっていた。ほかにも胃痙攣や腸カタルを患い、心臓にも異変があった。身体の不調は、1921年の3月から7月まで、大阪毎日新聞社の海外特派員として中国の各地を視察した長旅に端を発していた。旅行当初から風邪による高熱、船酔いに見舞われ、渡航した上海では乾性肋膜炎で3週間にわたり入院している。帰国後は、胃腸がすぐれず、下痢と痔に悩まされてきた。
加えて、22年11月に生まれた次男多加志の消化不良、手紙をやりとりした親友、小穴隆一の脱疽による大手術への立ち会い、養父母の病気などがその年末に重なり、それまで懸命にこなしてきた人気作家の役割を放棄せざるをえなくなっていたのだった。
芥川の心身をそれほどまでに追い込んだわけは、当時の出版ジャーナリズムの隆盛と切り離しては語れない。
この1923年1月、芥川の親友、菊池寛は文芸誌『文藝春秋』を創刊する。創刊号は発行部数3000部で、発売元は春陽堂。薄い同人制の小冊子のような体裁だったが、3年間で11万部まで読者を増やし、総合雑誌へと育っていった。他社の文芸誌の新年号への執筆を断った芥川も、盟友が発刊したこの雑誌の新年創刊号には、後に有名になるアフォリズム(警句)「侏儒の言葉」の連載を、約束通りに執筆した。
増える媒体、総合週刊誌が相次ぎ創刊
ことは文芸誌にとどまらない。朝日と毎日の2大新聞社は、前年22年の春から、対抗するように『週刊朝日』と『サンデー毎日』を発行し、やがて総合週刊誌へと発展していった。時事的なニュースのみならず、生活・文化、文芸読み物なども掲載して娯楽色も取り込んでいく週刊誌からは当然、人気作家の原稿が求められる。芥川も、その対象となり、22年の『サンデー毎日』創刊号に「仙人」を発表、翌23年3月にも戯曲「二人小町」を同誌に執筆するが、半年余り前に生まれた次男の多加志が消化不良で入院した同年6月には、『サンデー毎日』の原稿を断るほかなかった。
週刊誌とほぼ機を一にして、朝日新聞社は1923年1月、日刊のグラフ紙「アサヒグラフ」を創刊、同年11月から週刊の画報誌として再スタートする。同じ年の4月、日本の推理小説の草分けで、芥川の愛読者でもあった江戸川乱歩のデビュー作となる短編推理小説「二銭銅貨」が、雑誌『新青年』(博文館)に掲載される。
2年後の1925年(大正14年)の新年号で大日本雄弁会講談社が、国民雑誌『キング』を創刊、老若男女を問わない大部数の大衆路線を推し進めていった。この創刊号から吉川英治が「剣難女難」を連載、国民的な人気作家への道を歩み出した。1913年(大正2年)から『都新聞』などで断続的に連載が続いた中里介山「大菩薩峠」のような先例があるものの、歴史・時代小説、推理小説が大衆に浸透していくのも、この大正末期以降のことだった。昭和に発展する活字メディアと小説のジャンルがおおよそ、この頃に出そろってきたといっていいだろう。
当時、日本の映画産業は、まだ草創期のサイレント映画の時代だった。日本におけるラジオ放送の本格的な普及は、昭和に入ってからで、百年前は試験放送にも至っていない。活字読み物は、大衆の興味の中心にあり、活字媒体の急増によって人気小説家には、次々と原稿依頼が舞い込んできたのである。
尾上松之助や栗島すみ子といったわずかな例外を除いては日本の映画スターもそれほど育っておらず、テレビタレントもユーチューバーも不在のこの時代に、花形作家となった芥川への世間の期待は、今日の小説家の比ではなかったろう。純文学と大衆文学という言葉も、一般には普及していなかった時代である。構成や修辞に完璧を期して書き直しを重ねる芥川にとって、創作は喜びだけでなく多くの苦しみを伴うものだった。時に、長編としての展開ができず、連載を中断した作品も一再ならずある。
しかしながら、1927年に自殺した作家の手記にあった「将来に対する唯ぼんやりした不安」だけがことさらに強調されて、死後の芥川像には、厭世観にさいなまれた芸術至上主義者というレッテルが、たびたび貼られてきた。だが今日、この芥川像は、関口安義氏をはじめとする最新の芥川研究によって、実証的に覆されようとしている。
関東大震災、芥川が多数の寄稿
とりわけ、関口氏が著書『芥川龍之介とその時代』(筑摩書房)などで明らかにしてきた1923年9月の関東大震災後の執筆活動は、改めて注目されていい。
『芥川龍之介全集』(岩波書店)で、この1923年9月以降に書かれた文章をたどると、関東大震災について書かれた作品が、きわめて多いことに気がつく。
「大震雑記」「大震前後」「地震に際せる感想」「廃都東京」「感想一つ」「古書の焼失を惜しむ」「鸚鵡――大震覚え書の一つ――」
10月刊の月刊誌、週刊誌に、わかっているだけでもこれだけのエッセイや記録を寄せている。この他「震災の文芸に与ふる影響」「妄問妄答」を加えれば、合わせて9本。さらに『文藝春秋』11月号の「侏儒の言葉」に掲載された単行本未収録の「或自警団員の言葉」という文章も書いている。地震の発生が9月1日。締め切りまで時間がない。人気作家の宿命とはいえ、体調がすぐれない中で、よくも、これだけおびただしい注文に応えたものだ、と不思議にさえ思う。だからこそ、これらの急ぎの原稿の執筆には芥川なりの動機があったに違いない。
9月1日の大地震後、芥川の東京・田端の自宅は屋根瓦が10枚余り落ち、石灯籠が倒れただけで済んだが、電灯とガスがつかなくなった。2階から見る東京の空は、火事で紅に染まっている。2日、延焼を恐れて避難するため妻の文と家財の荷造りをして夜に至ると、39度の発熱に襲われる。雑誌『女性』に寄せた「大震前後」には、そんな緊迫した日々の出来事を克明に記している。
否定的精神の奴隷となること勿れ
特に目を引かれるのは、総合雑誌『改造』10月号に掲載した「地震に際せる感想」だ。大震災を、天によるとがめ(天罰)とする渋沢栄一の「天譴論」への反論を試みながら、「人間に対して冷淡な自然」に負けてはならない、と力強く鼓舞する。
「大震と猛火とは東京市民に日比谷公園の池に遊べる鶴と家鴨とを食はしめたり」
芥川は、震災後の市民の悲惨な状況を見つめながら、
「されど鶴と家鴨とを、――否、人肉を食ひしにもせよ、食ひしことは恐るるに足らず。自然は人間に冷淡なればなり」と書く。「鶴と家鴨を食へるが故に、東京市民を獣心なりと云ふは、(中略)畢竟意気地なきセンティメンタリズムのみ」
さらに芥川は、自分も姉や弟が家を火事で焼かれ、数人の知友がこの震災で命を落としたがために、遺憾の思いは、やみ難い。そう記した上で、「我等は皆歎くべし。歎きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり」とつづり、次のように呼びかける。
「同胞よ。面皮を厚くせよ。(中略)冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ」
こうした言葉は、「厭世的な青白き芸術至上主義者」という旧来の芥川像とは、ほど遠い。
実際、10月発行の『婦人公論』に載せた「古書の焼失を惜しむ」では、地震で損害を受けた博物館の美術品や、大学図書館の蔵書の焼失の状況に触れながら、書庫の構造や、図書館の人員配置の問題点を指摘し、古書の覆刻が遅れていたことに対する異議も唱えている。そこには、現実に即して物事を考えるジャーナリストの視線がある。震災についての原稿を各誌の求めに応えて書き送ったのも、ジャーナリズムの一端を担う作家たるべしという自覚があったからに相違ない。
「羅生門」「鼻」「戯作三昧」「地獄変」「藪の中」。そんな歴史に題材をとった短編で注目され、「奉教人の死」「きりしとほろ上人伝」のようなキリシタンものや、「蜘蛛の糸」「杜子春」のような児童文学でも新たな境地を次々と切り開いてきた芥川は、読者にとって、まばゆい存在だった。未曽有の大災害で打ちひしがれる人々が、東京に住む芥川の発言を待ち望むのは、必然の心情だっただろう。芥川はそれに誠実に応えた。
「芸術は無用の長物」菊池寛の認識
一方、芥川の親友、菊池寛(1888〜1948)は、震災後、率直な言葉で状況を見据えている。
「震災は、結果に於て、一の社会革命だつた。財産や位置や伝統が、滅茶苦茶になり実力本位の世の中になつた。真に働き得るものゝ世の中になつた。それは、一時的であり部分的であるけれども、震災の恐ろしい結果の中では只一の好ましい効果である」
1923年、『中央公論』10月号に寄せた「災後雑感」を、菊池はこう書きだす。しかし、肯定面はそれぐらいで、後は、悲観的な見通しが続く。
「今度の震災では、人生に於て何が一番必要であるかと云ふことが、今更ながら分つた。生死の境に於ては、たゞ寝食の外必要のものはない。(中略)震後四五日、我々は喰ふことゝ寝ることの外は、何も考へなかつた。『パンのみにて生くるものに非ず』などは、無事の日の贅沢だ。
凡ての商売の中でも、人生に第一義に必要な物丈が残つた。食物の店丈である。呉服屋や下駄屋でさへ、容易に店を開かなかつた。美術小間物屋や、写真屋や骨董屋などは、当分破滅の外はないだらう。自分の家の近所の楽器店では、味噌を売つてゐた。芸術の悲哀である」
菊池は、震災後の状況を述べた上で、「究極の人生に芸術が、無用の長物であると云ふことは、我々に取つては、可なり不愉快な真実である。我々の仕事に対して信念を失つたことは、第一の被害である」と記す。作家として、この年創刊した『文藝春秋』の編集発行人として、リアルに現実を見つめた率直な発言で、百年後の今日読んでも、この苦い現実認識は、古びていない。
「今度の震災に依つて、文芸が衰へることは、間違いないだらう。(中略)その上、文芸に対する需要が激減するだらう。震災後、書店は長く店を閉してゐた。印刷能力の減少も、その大なる原因だ。雑誌の減少も、その一つだ。量に於ける文芸の黄金時代は去つたと云つてもいゝだらう」
震災、出版業界に大きな打撃
この予測は、きわめて悲観的に見えるが、震災被害の現実を知れば、無理もない。短期的に見れば菊池の言うとおりだった。9月1日の大地震で発生した火災は、書店や出版社、印刷・製本業者が集中する東京・神田から日本橋、京橋一帯を焼き尽くし、出版・印刷関連の会社に深刻な被害をもたらした。菊池が編集する『文藝春秋』の発売元だった春陽堂は、日本橋にあった社屋が倒壊、焼失し、甚大な被害を受けた。看板雑誌『新小説』は9月号から12月号まで休刊を余儀なくされた。『文藝春秋』の刊行も当然困難になった。菊池は「災後雑感」に「私の経営してゐた『文藝春秋』も九月号製本中に悉く焼けてしまつた。十一月に再刊することになつたから、それまで待つてほしい。右『文藝春秋』の読者諸君に本誌を通じて告げて置く」と、『中央公論』誌面を借りて呼びかけている。今日の目で見ると、他社の誌上で、こんな重大な知らせをするのは、常識外れと思われるかもしれないが、ラジオもテレビもインターネットもない時代、他誌への寄稿も、自社の雑誌の出版事情を伝える貴重な機会と菊池はとらえたのだろう。
ただ、出版界の立ち直りは意外に早く、芝・愛宕下町にあった改造社は、本社が全焼、在庫の書籍もほとんど灰になるなど大きな被害を受けたが、3年後の1926年(大正15年)に刊行を始めた『現代日本文学全集』が売り上げを伸ばして業績を大きく回復した。1冊1円の廉価で販売したこの文学全集に他社が追随し、昭和の初期にかけて空前の円本ブームが巻き起った。菊池の予想に反し、廉価版の全集の競争で「量に於ける文芸の時代」が、出現したことになる。
「通俗的な文芸流行」と予測
それでも、菊池の洞察は鋭かった。同じエッセイに書いている。
「震災に依つて、作家の主観が深められ、その為に文芸が深刻になると云ふ人がある。或は然らん。然し、それは作家本位の観察である。(中略)需要者側の要求する文芸はさうではないだらう。きつと、娯楽本位の通俗的な文芸が流行するだらう。読者は、深刻な現実を逃れんとして娯楽本位的な文芸に走るだらうと思ふ。そんな意味でも、文芸の衰頹は来る」
この予言は的確で、江戸川乱歩、吉川英治、大佛次郎、長谷川伸、直木三十五らの活躍で、昭和前期に大衆文学が隆盛を極める。菊池自身、「読物文芸」の雑誌として1931年(昭和6年)に、月刊の『オール讀物号』を創刊するなど、ただ衰退を嘆く作家とは異なるしたたかさを備え持っていた。
一方、作家の永井荷風(1879〜1959)もまた関東大震災後の日々について、その日記「断腸亭日乗」に詳しく記している。荷風は、東京・麻布にあった自宅の洋館、「偏奇館」で罹災した。自宅に大きな被害は出なかったが、何度も余震に見舞われ、市中から炎が上がる様を見てきた。
震災発生から一か月余り後の10月3日、荷風は丸の内まで往復し、バラック小屋が立ち並ぶ日比谷公園などを見て歩いた。帰途、愛宕下から急坂を登って振り返れば、渺々とした焦土が広がっている。
荷風「灰燼になりしとて惜しむには及ばず」
「帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず」
明治以来の文明開化への違和感を隠さず、反時代的姿勢を貫いてきた荷風の目には、荒廃する東京の光景は、こう映ったのである。荷風はさらに書く。
「近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。(中略)外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ」
西欧追随の文明開化は、ハイカラな消費文化を生み出し、大正後期には都心にデパートが次々と開店、洋装の普及でモダンガールなどの新しい風俗が生まれた。消費をあおり、古い文化を捨てて顧みない当時の社会を「奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし」と感じる荷風は、この震災を渋沢栄一以上に「天罰」ととらえたのだろう。
震災による荒廃を、突き放して見つめる荷風の日記の冷静なまなざしは、20年余り後の昭和の敗戦まで変わることがない。
同じように被災した東京を歩きながら、生き抜くための励ましと方策をつづった芥川龍之介との違いは明らかだ。荷風よりも13歳若い芥川は、荷風のような時代の隠者には、なりようがなかった。台頭するプロレタリア文学も、横光利一らの新感覚派の文学も、正面から受け止めて、その必要性や新しさを理解して評する文章を雑誌に公表している。そればかりか、大正期の詩歌の担い手、斎藤茂吉や萩原朔太郎についても、言葉を尽くしてその詩の精髄を理解しようと努めた。朔太郎を「人天に叛逆する、一徹な詩的アナアキスト」とみる芥川のエッセイ(「萩原朔太郎君」)は、朔太郎への共感をにじませながら、その詩的精神の核に触れる優れた朔太郎論といっていい。
時代は動いている。メディアも動いている。その潮流の行方を見定め、メディアを掌握して、時代をつかんだ人物が菊池寛とすれば、雪崩を打つような西洋化に背を向けながら、その危うさと政府のあやしさを、日記という形式で冷徹に見つめ続けたのが、荷風だった。
メディアの要請に応じ、心身すり減らす
大正期に誰もが注目する作家となった芥川は、この時代の要請にあまりにも誠実に応じて、心身をすり減らしていった。大震災発生のその日、芥川は興文社から、明治大正の諸作家の作品を集めた中学生用の副読本の編纂を依頼され、引き受けた。この仕事が予想を超えて負担になったことは、関口安義著『よみがえる芥川龍之介』(日本放送出版協会)などに詳しい。
2年後の11月に刊行される芥川龍之介編『近代日本文芸読本』全5集だが、作品の選定作業の後、百人を超える収録作家の多くに、自筆の手紙を書き送り、あるいは面会して、掲載の許諾を得ていった。しかし、予想外のトラブルもあって、芥川は心痛が絶えなかった。ほかにも心身の負担が、自殺へ向かう要因になったことは想像できるが、今はその詮索に時間を費やす時ではない。
関東大震災が発生した1923年。危機に際して発した作家たちの言葉は、それぞれの作家の生の形を、ありありと浮かび上がらせている。活字メディアの隆盛期、作家はその言葉で生き様を示す人だった。
それから百年。メディアは移り変わっても、新たな危機を生き抜く言葉の力を、我々はなお探し求めてやまない。
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